私が大本の本部で奉仕していたのは、大正末期から昭和七年ごろまででしたが、そのころ、岡田さんが本部へいらっしゃる時は、たいていご夫婦揃ってでした。そして、いらっしゃると、いつも聖師様と愉快そうに歓談しておられました。
ご性格が聖師様によく似ていらして、磊落で豪放なところがあられました。東京の商人だったせいか、どことなくアカ抜けしておられました。また、高ぶったところがなくて親切なお人でした。
私は大本本部から、お暇をとって後、東京へ出て人形づくりをしておりましたが、その人形を三越に紹介していただきたく思い、よし子さん(二代様)が訪ねて下さった折に、それを申し上げたところ、「一度岡田に見せてごらんなさい」と申されるので、当時(昭和十年)玉川上野毛のお宅へ、人形を持って伺いました。
藤娘の人形でしたが、岡田さんは、ごらんになって、『まあ、これならよかろうと思う。いま、ぼくは直接三越とは関係がない。元の番頭──たしか木村さんと言われたと思います──が、装身具小間物の仕事を、引きついで浜町でやっていて、それを三越へ入れているから、それに頼んだらいいだろう』と言われ、さらに『家内に案内させましょう』と、実に親切におっしゃって下さいました。 ご承知の-通り、岡田さんは美術学校で学ばれ、店をもたれてからは、ご自分でデザインなさったベッ甲細工や小間物を三越へ入れておいででしたから、その折、色彩についての話をして下さいました。お持ちした藤娘の人形は、黒色の着物に赤の帯が締めてありましたが、『この腰ひもに反対色を使えば、グッと引立つ』などと、ご親切な助言をいただきました。
それからの私は、毎月歌舞伎座へ手帖を持って行って、舞台の六代目菊五郎の所作事の着付や配色を書き止めてくるようになり、幾分配色に気を使うようになりましたが、これも岡田さんのたまもので、ありがたいことだったといまだに感謝しております。