至高の精神形成

 教祖様から強羅の本部にご招待を受けたのは、昭和二十六年で、いまからもう十三年も前のことです。同行したのは、ふたりの新聞記者でした。

 そのご風貌はいつもあざやかに瞼のうらに焼きついています。あれからもう十三年の歳月がたってしまったとは、まるでウソのようです。

 私たちは、強羅の高台のお邸の、落ちついた応接間に通されました。窓からは奇岩をあしらった広い芝生と、枝ぶりのよい木々を見渡すことが出来ました。空気までが澄みきって、ほこりっぽい東京都内から来てみると、まさに別天地の感がありました。

 教祖様は、無造作な和服で出て来られました。信徒たちから、生神様のような尊敬をうけていられる人にしては、なんというかぎりけのない、権力ぶらない、庶民的な親しさをたたえていられたことでしょう。ただその瞳の中に秘められている、何か烈々たる気概と、いささかの私心も宿さない、あたたかな光とに、やはり常人とは違うものがありました。

 当時としては、大変珍しいお菓子や、果物をつぎつぎと運ばせて、私たちを手厚くもてなして下さいましたが、教祖様は緑茶といっても、玉露とか、銘茶のような賛沢なお茶ではなく、ごくありふれた煎茶をおすすりになるだけで、何も口にしようとはなさいませんでした。

 「どうして、教祖様は何も召上がらないのですか」
 私は無遠慮に、そう伺ってみました。

 痩身痩躯とはいえ、まだまだお元気で、見るからにエネルギッシュ、およそ老いなど影もさしていないようにお見受けしたので、あまりにも何も召上がらないことに不審を抱いたのです。

 『私は教団を背負って立っている者です。自分の体であって、自分の体ではない。時間をきめた食事以外は、ぜったい口にしないように体をいたわっているのです』と、教祖様は静かに答えられました。

 おいしいもの、珍しいものを食べるということは、われわれ凡俗の人間にとっては、大きな楽しみのひとつです。教祖様もたしかに例外ではあり得ないと思うのですが、それをきびしく自制し、禁忌されるこの並々ならぬ決意の裏には、自分の体であって、自分の体ではない、命さえも信徒にささげたものだという、崇高なお気持がなければ、容易に実行されることではありません。

 一事が万事で、教祖様の生活は、もはや一個人の生活ではなくて、信徒のため、教団のための生活に徹していられたに違いありません。

 それでいて、その時の話題は、初めから終わりまで古美術のことばかりでした。ちょうど美術館が半ば竣工していた際で、教祖様自らご案内して下さったあとで、その部屋のテーブルにも、数々の由緒ある陶磁器を持っ
て来られて、私たちに自由に鑑賞させて下さいました。

 古美術に対する深いご愛情と、広くて豊かな知識に、私は舌をまきましたが、そういったものは決して短時日に身につけられるものではありません。教祖としての箔をつけるために、一夜づけの勉強だとしたら、どこかでボロを出すものですが、私たちの質問に対しても、明快なお答えをいただいたところを見ると、これら長いあいだの集積に他なりません。だが、教祖様が今日までお歩きになった道は、静かに古美術の美にひかれていられるような、坦々たる道ではなかったはずです。

 そのけわしい日常にもかかわらず、ここまで到達されたことを思うと、やはり偉人として、凡人には思いも及ばない、きびしい修練があったことと思います。

 私はここに、宗教と芸術の調和というか、善と実の揮然たる一体化というか、そういう見事な、そして至高の精神形成を発見して、ひどく感激しました。