昭和二十六年の春、明主様は初めて関西地方にご巡教になられましたが、その時はまだ公会堂などの公共施設が借りられなくて、東山の法然院というお寺で、関西地方の信者にご講話をなさいました。
その日、まず嵯峨の釈迦堂に行かれました。それは四十年ほど前に、明主様が初めて京都に行かれた際、このお寺の天井に龍の絵が描いてあって、それが深く印象に残っておられたので、ふたたびごらんになるためでした。
明主様はお車を東山の法然院に走らせる途中、広沢の池の辺りでお車を止められて、附近の景色をじっと眺めておられました。そして、『いずれ京都にも地上天国を造らなければならないが、この辺がいいな』という意味のお言葉がありました。
実はその前から、私ども関西在住の教会長は、どこか適当な所はないかといろいろ探しておりまして、伏見、桃山の方にも適当な場所があるというので、一度ごらんいただくことにもなっておりました。
その時、明主様と管長先生が、その場所でいろいろ四辺を指さしてお話になっておられましたが、やがて、その土地約一万八千坪と家(春秋庵)が手にはいるらしいというので、管長先生がいろいろ奔走されたのです。
その翌年の春、明主様はふたたび現地に行かれたのですが、その時は、先方の値段が非常に高くて、ちょっとまとまりそうにもなかったそうですが、明主様は管長先生に、
『神様が必ず手にはいるようにするから、話を続けているように、きっと安く手にはいるよ』というような意味のことをおっしゃられたそうです。
それがその秋、大体こちらの買えるような価格で約束が出来ました。
その時明主様は、
『西の釈迦堂と東の法然院の中間の土地が入手出来たわけだ』と喜ばれて、
『法然院は法然上人のゆかり深い所であり、上人は南無阿弥陀仏を最初に弘めた方で、法然上人の弟子が親鸞で、それから蓮如上人と続くわけで、いわば浄土真宗の開祖というべきで、まあ日本における阿弥陀さんの本拠です。釈迦堂はお釈迦さんを祀ってある所で、私が京都に来て最初にお参りした所。そして、こんどこちらの手にはいったところは、ちょうどその中間にあたるところで、つまり釈迦、阿弥陀とこちらは観音ですから、これで三位一体となるわけです。三尊の弥陀となります。仏教の方でいうと、釈迦が七の弥勒、阿弥陀が六の弥勒、観音は五の弥勒、それで五六七、日月地となるわけです。弥勒三会の暁という言葉があるが、これでいよいよ霊界が変わるのです。だから、私が初めてあの土地を通った時、不思議に心惹かれて車を止め、その土地がほしくなったのだ。そしてやはりチャンと手にはいるようになった。みんな神様が仕組まれていることだから……』
という意味のお言葉がありました。当時十分な意味はわかりませんでしたが、非常に感銘深くおききいたしました。