私はあるご縁で、昭和十五年の暮に渋井総斎先生にお目にかかりましたが、先生の手引きで、翌年の四月、宝山荘に伺って、初めて明主様にお会いしました。
明主様は、『篆刻(てんこく)のことで、松林に会いたい』と渋井先生に言われたそうで、従って、その日の話題は、もっぱら篆刻や書のことでした。お部屋は富士見亭でした。
そのうちに、おひるになって、ご飯をいただき、とうとう午後三時ごろまでお話をしてしまいました。渋井先生は心配して、“ああいうイッコクな天上のことだから、何か失礼なことを明主様に申し上げたのじゃないだろうか”と思ったと、あとで笑って言われました。
「実は、これこれでお昼食までちょうだいした」と話しますと、渋井先生は、「あんたは大変しあわせな人だ。私でさえ、まだ富士見亭へはいったことがない」と言われました。
私は、明主様は大変えらい方だとは思っていましたが、お話をしていてがあります。“普通の人と、ちっとも変わりがない方だな”と思いました。そこに、お目にかかる前とはちがった、明主様のえらさがあると感じ入りました。
明主様は、『師匠につくべきだろうか』とご質問になりました。私は、「それは必要ないと思います。師匠がなければ進まない人と、師匠を、一人ならび三人も五人もつけてもダメな人と、師匠なしでも立派に書ける人とあります。明主様のような方は、師匠はいらないと思います」と申しました。
明主様も、私の意見に共鳴して下さいました。
明主様の書は、唐の太宗の字に大変よく似ているように見えます。悠々たり、閑々たりの、言うならば、天子にして初めて能うる書──模倣の全然出来ないもので、王者にして初めて出来る貫録を示している書です。
明主様の書を初めて拝見したとき、すでにそれを感じました。書を通じて、これはただのお人ではないと、そう思いました。
能書というのは、明主様の書のようなものを言うので、少しぐらい法にはずれていても、その字の中から受ける感覚といったものが、その域に達した人でないと、語ってもわからないものが出ています。
素人が見て、一体どこがいいのだ──というように、口では言えないその人の味、人間がにじみ出ているものでなければ、能書とは言えません。“その書を通して、その人の人格が現われるようなもの”ということになると、なかなか一介の凡俗には出来ません。
秋のある日、宝山荘に詩人たちが集まり、詩会を開いたとき、書道の大家の、松本芳翠先生は、掲げられた明主様の大額『日月』に目をとめて、感嘆久しいという様子でしたが、「一体、日月のごとき字はだれが書いても、そううまく書けるものではないが、これは実にいい出来ばえだ」と称賛されました。
私は思うのですが、書は絵にも一脈通ずるものがあります。音楽とも通ずるものがあります。明主様の書には、美術的、音楽的なすばらしい味が出ています。非常にリズミカルで、“人格とその感覚の現われている書”ということが出来ます。まことに、“書は人なり”であります。