私が専従に踏み切って丸二年目、昭和二十四年の十月ごろだったと思います。自宅の松の木が急に枯れてしまいました。(当時私は大阪府堺市に在住しておりました)
あまり急でしたので、母と「これは何か家の災難を松の木が身代わりになってくれたものだろうか」と考えておりましたが、とにかく先生にご報告させていただこうと、ご報告いたしましたところ、「明主様にお伺いさせていただきましょう」とのことで、つぎの御面会日(現在の参拝日)に先生よりお伺いしていただきました。
先生、「信者の家の松の木が、急に枯れたのでございますが、何か意味がございますでしょうか。お伺い申し上げます」
明主様、『その家の松の木はその一家の主人の運命に関係があります。この家の主人に何か変事があるというお知らせですよ。この家は御神体をお祀りしていますか』
先生、「はい、お祀りさせていただいており、一家全員入信させていただいております」
明主様、『御用していますか』
先生、「はい、息子は専従させていただいております」
明主様、『何人ぐらいお導きしましたか』
先生、「二百名近くお導きしております」
明主様、『それなら大丈夫だ。心配はいらない。しかし、そういう意味があるんだよ』
早速帰り、その由を母に伝え、“明主様が大丈夫とおっしゃったのだから絶対心配ない”と話しましたものの、何かしら心の隅にある不安を打消すことは出来ませんでした。と申しますのは、当時父は会社の関係で、四国の工場長として観音寺市へ転勤しており、毎月一回か二回、本社と自宅へ帰るようになっておりましたので、家族と離れております父のことを、何かと案じておりました。(四国の工場の父の部屋にも御神体を奉斎させていただいておりました)それから何日か過ぎ、父が堺へ帰ってまいり、その時、「このあいだは、もうちょっとで死んでしまうところだった」と話すのを聞いて、びっくり仰天してしまいました。
それは二十四年十一月十一日午後二時、観音寺港出帆の加藤海運の美島丸という船で、父は大阪の本社へ帰ろうと、切符も入手、荷物も整え、昼過ぎ、少し時間があるので、部屋で休憩中、工場関係の人が訪ねてまいり、今夜の会にぜひ出席してほしいとのこと。父は、二時の船で大阪へ帰るためこの通り切符も買ってあるので、つぎの機会にしてくれるよう再三頼んだのですが、どうしても聞きいれず、ついにやむなく本社へ帰るのを延ばしたのです。
ところがその翌日、新聞を見て背筋が冷たくなったとのこと。それは父が乗船することになっていた船(美島丸)が小豆島の沖合の牛窓というところで沈没して、全員死亡という海難事故が報ぜられていたのです。
全く明主様のお言葉に寸分の間違いなく、当然死の運命にあった父の身に御守護いただきました。もし私たちに、入信のお許しなく、また、御用の尊さを知らなかったら、私の一家はどうなっていたことか。考えるだに悲惨なことです。まさに“御用こそ救いである”ことを身をもって体験させていただくとともに、明主様の御教えこそ神の声であり、明主様のお力こそ神の救いであることを、心の底より分からせていただき、ますます御用にお使いいただくことをお誓いいたしました。