神さまがわかるのに、理論<りろん>がなければ駄目だという人、また神さまはどうもわからないとたいへんむつかしく首をひねって考える人がありますが、神さまは、信仰という生活を通して、神さまの方からわからしてくださるもので、体験を積んで知った者からいえば、これほどやさしいことはないのです。たとえば、牡丹餅<ぼたもち>の味をいくら口先<くちさき>で説明したところで、食べてみないかぎりは、どんな智者学者<ちしゃがくしゃ>でもわかりません。そのかわり、食べさえすれば大人にも子供にも、賢<かしこ>い人にも馬鹿にもすぐわかります。信仰もおなじことで、体験によってつかむものです。もともと神さまは人間生命の根元<こんげん>であって、人間の肉体も、精神も、宇宙の本体(神)の分<わか>れにすぎません。したがって、神と人間とはきるにきれぬ親子の間柄<あいだがら>にあるのですから、いくら神を否定<ひてい>していても、いつかはわかるように導かれていくものであり、最後は拒<こば>みきれないものなのであります。
そう考えますと、神がわかった人と、まだわからない人、つまり、親にめぐり会えた人、まだ会えない人との間には、どうしても幸不幸の差があることは否<いな>めません。親は無用の長物<ちょうぶつ>のごとく思っていた人も、子を持って知る親の恩とやら申しまして、若いときにせめてもう少し、親孝行をしておけばよかったと悔いるようになるのですが、そのときはすでに、親は幽冥所を異<ゆうめいところこと>にしており、いまさら追いつかないことになるのです。両親の愛をしらぬ人はどこか淋<さび>しいものですが、神を知らぬ人も、やはりおなじことが言えましょう。この意味から、人間にはどうしても信仰が必要で、これがないと真の愛に恵まれず、いかに物質があっても、心が飢<う>え渇<かわ>き満<み>たされぬものがあるのであります。真の人間の幸福とは、物質によるのでなく、その心の豊かさ、安らかさにあるのです。しかし、物を不必要というのではありません。物もたしかに幸福の一部ではありますが、精神を無視<むし>した幸福はないと言ったまでです。もっとも、はじめは夢中<むちゅう>で物を求めますが、物が足<た>りたら満足かといえば、けっして満足に終るものでなく、最後に求めるものは精神の喜び、精神の満足ということでしょう。そこで信仰がない人は慌<あわ>てねばならないのです。