信仰の確立するのは行詰ったとき

 普通ご利益<りやく>といえば、商売が繁昌<はんじよう>したり、病気が治<なお>ったり、お金が儲<もう>かったりすることだと思っておりますが、なるほど、それもたしかにご利益の一部にはちがいありませんが、その反対のご利益もあります。それは、むしろ形のうえからみれば、失敗としかみえないこと、また不利益にさえなったという場合にも、偉大なご神徳を授かることもあるのでして、物質的利益のみを追求する間は、まだ真の信仰に徹<てつ>したとは言えません。神さまは信仰者に対しては、ことに人間陶冶<にんげんとうや>に意を用いられ、真の幸福者となって、地上天国の生活を送れるように、ときには物質的の幸を与え、よろこばせるかと思えば、またときには苦<にが>い目、辛<つら>い目に遇わせて、身魂をねり鍛<きた>えられ、より高き人格へと導かれるのでありまして、ほんとうに信仰が固まるのは、よろこびごとを与えられ、うきうきしたときよりも、むしろ、行詰ってどうにもならないような目にあったときこそ、一段も二段も飛躍するのであります。     

「栄光  四四七号」