信仰は感情の発露

 宗教は、神さまの感情性<かんじょうせい>のご発露<はつろ>でありますから、ほんとうに神さまの御<み>心がわかったら、かならず恋しく慕<した>わしいという気持がほとばしりでるもので、信仰は理性だけでは駄目<だめ>なのであります。幼児が乳房<ちぶさ>をふくみながら、母親の顔ばかりをながめくらしておりますうちに、母親の顔をおぼえてしまうように、信仰も同様で、神さまは、あまりに遠く高きにすぎるところから、その中間を取次ぐ教主が必要であり、信者は教主に接近して、まず人間的な親愛感<しんあいかん>を得、さらに教主を通じて、神を信奉<しんぼう>するということが、いちばん自然でありまして、その意味で、教主と信者とは、なるべく接近する機会<きかい>を心がけて持つべきだと思うのです。

「栄光  三七二号」