心の素直なものは、先哲の教訓や体験記<せんてつきょうくんたいけんき>を読んだだけでも、そこから悟りをひらきうるものでありますが、心が頑<かたく>なで慢心強き者は、いかなることに遭遇<そうぐう>しても、それによって自分自身を反省し、練磨<れんま>しようという意志はありませんから、せっかく与えられた向上の機会も逃してしまい、十年たっても、二十年たっても、霊的にはおなじところを堂々めぐりしておるのであります。これに反し、真の信仰ある人は、いかなることに遭遇することがあっても、これを天の賜物<たまもの>として甘受<かんじゅ>し、むしろ進んで身魂を磨こうとするものであります。その結果、おなじ試練に遇<あ>いながら、甲は進み、乙は後退するという差異<さい>を生じ、一生の差はじつに測り知れないものがあります。これを思えば、信仰こそ人生の至宝<しほう>であって、宝は子宝をはじめ名、位、寿、福といろいろありますが、信仰の宝さえ手に入れば、あとの宝は求めずして、みずから手に入るものであります。仏教に〝不求自得<ふぐじとく>″という言葉がありますが、まさにそれであります。
「栄光 三八二号」