昭和二十五(一九五○)年二月四日、立春のこの日は本教にとって歴史上重要な日となった。「日本観音教団」が創設されて二年半、この間「日本五六七教」が独立し、陰陽二つの独立組織が御神業実現のために補い合いながら発展してきた。しかし、この日をもってこの両教団は発展的に解消して統一された。まさに明主様が語られたとおり二つの教団は経と緯の働きをした後、一つの教団として生まれ変わることになったのである。すなわち「世界メシヤ教」の創設である。
「世界メシヤ教」は明主様を主管者として組織された。本部組織として、内局、総務、教務がおかれ、当初三つ、のちに四つの大教会制が敷かれることになった。この時、總斎も明主様の御神業を支える教主補の一人に就任している。この三つの大教会とは、
五六七大教会
天国大教会
大成大教会
である。その後、
光宝大教会
が加えられた。總斎はもちろん「五六七大教会」の主管者となった。この大教会傘下に七十六の中教会がおかれ、その下に七百十の分教会が設けられた。
さて、明主様は機関紙『光』を改題した二月四日発行の『救世』の第一面に、「世界救世教の誕生について」と題した開教の辞を寄せられている。
開教の辞 世界救世<メシヤ>教の誕生について
昭和二十二年八月三十日、宗教法人として、創立された日本観音教団並びに同二十三年十月三十日同じく創立された日本五六七教会は、今回自発的に解散し、右両会を打って一丸としたる新しき構想のもとに、本年二月四日立春の日を期して、表題のごとき宗教法人世界救世教の創立出現となったのである。(後略)
(『天国の礎』宗教 上)
この時から神命に基づいて「明主」という御名を用いられることを明らかにされている。なお、本書では、これまで便宜上、岡田茂吉教祖を明主様と表記してきたが、一般にはこの時期までは“大先生”と呼称されていた。明主様という名称が用いられるのは、実際には「世界メシヤ教」の立教以降である。