昭和二十四年八月二十一日 講話(29) 光録11
仏教っていうのは経の教えですから、つまり霊界を重視するんです。それに対してキリスト教は緯ですからぜんぜん違うんです。西洋の霊界はそうなっているからそれでいいし、それから日本の霊界にもキリスト教の霊界ができてますからね、戒名をつけなくてもキリスト教の人は差し支えないんですよ。戒名をつけられて仏教で祀られるとかえって迷惑なくらいなんです。ところがキリスト教に入った人で、いままでの先祖を祀らないと、先祖は困っていろいろ知らせようとするんです。だからキリスト教になっても、仏様だけは従来の通り仏壇に祀っておくべきですね。
昭和二十四年八月二十一日 講話(37) 光録11
これはいけませんね、納屋なんかへ桧を使っちゃあ。納屋へ桧を使うなんてたいへんな間違いですよ。桧ってのは神様のお住居だとか、なにかそういったものに使うべきものです。先祖がこれをたしなめてるんですよ。さっそく納屋を改造するんですね。用材は杉でも松でも、桧以外ならなんでもいいですからね。
光明如来様をお祀りしたって駄目ですよ。神様としても間違ったことをしてればお許しになりませんからね、こんな場合はかえって先祖に賛成なさいますよ。食べ物でもなんでもそうで、すべて相応の理なんですよ。木といえども神様がちゃんと区別しておられるんですから、それを踏み違えちゃいけません。
昭和二十四年六月三日 講話(20) 光録12
〔 質問者 〕塀の修理をしようといたしましたところ、今年は辰巳の方向に先祖が一〇年目にきてるからいけないと申す人があります。いかがなものでしょうか。
昭和二十四年六月三日 講話(22) 光録12
〔 質問者 〕先祖のお祀りの場合、または新たに位牌を作ってお祀りする場合、命日以外の日でも差し支えないでしょうか、また新規に仏壇を誂えてお祀りする場合はいかがでしょうか。
【 明主様 】 これは命日がいいですね。古い、判った先祖の命日がいいですよ。あとはお彼岸がいい。そのどっちかですね。
昭和二十四年六月三日 講話(25) 光録12
やはり先祖がやってるんでしょうね。ま、もう少し経ってみないことにははっきりとは判りませんがね。……この間こんなことがあったんです。ある家で、いくら牛を飼っても死んでしまうんですね。他の家ではなんともないが、その家で飼うと死んでしまうんです。で、私はその人にいまの職業をやめて信仰の仕事を専門にやれってことだって言ったら、納得して喜んでやってる人がいますが、これもあるいはそれかもしれませんね。
昭和二十四年八月十三日 講話(3) 光録14
(一)他家に嫁入りした場合、その実家の位牌は「先祖代々」だけでよろしいでしょうか。
昭和二十四年八月十三日 講話(8) 光録14
兄姉は上にし、弟妹は自分の子より下でいいんです。……位牌を祀る場合、仏壇に向かって、真ん中が先祖代々、向かって右が祖父母、先祖代々の左へ父母、祖父母の右に自分の兄弟の位牌を置き、さらにできるんなら父母の位牌の左に妻の先祖代々をお祀りすればいいでしょう。
昭和二十四年八月十三日 講話(9) 光録14
〔 質問者 〕分家で新たに仏壇をしつらえ、先祖のお祀りをいたしたいと存じますが、祀り込みは天津祝詞と善言讃詞のみでよろしいでしょうか。別に坊さんをお願いする必要はございませんでしょうか。
昭和二十四年十二月二十日 講話(10) 光録15
罪を許すんではなくて罪を尤めるんですよ。だから、アベコベですね、これは。神様のほうだって罪を許すわけには行かないんですよ。しかしね、人間はだいたい自分で罪を作って苦しんでるんですよ。だから、馬鹿なもんですね、人間ってものは。(笑声) 不幸ってのは人間が自分で作って苦しんでいるんですよ。そりゃあ、先祖の罪ってこともありますがね。しかし、先祖と言ったって結局は自分だから、やはり自分の罪ですよ。なぜって、先祖は自分かあるいは自分の父母とか兄弟と言った肉親ですからね。……試練を与えるのは神様がその人をお使いになるとき、汚れを取り除くために浄めてくださる、それが苦しみなんで、それを人間のほうで、「ああ、あれは神の試練だったのだ」
昭和二十四年十二月二十日 講話(25) 光録15
〔 質問者 〕仏壇を祀っていても、習慣的にただ空念仏でも毎朝毎晩お詣りする人と、たとえ一〇日に一遍でも心をこめてお詣りする人とでは、御先祖はどちらをお喜びでしょうか。