昭和二十三年二月十八日 御講話(5) 光録(補)
神道では神さえ祀れば仏はどうでもよいとしているがこれはいけない。特にキリスト教は先祖を祀らないから不孝です。病人や死人がよけい出ます。山室軍平なんかはいい人でしたが不幸だったですね。実に哀れです。祖先を祀らないから祖先が怒るんです。西洋は霊界も東洋と違っており、また生きているときからそういうふうに教育されているからかまわないが、東洋の霊界は縦で層をなしています。西洋は横です。
昭和二十三年二月二十八日 御講話(5) 光録(補)
【 明主様 】むやみにやってはいけない。ちゃんと霊に承知してもらうんです。埋めた骨も出すんでしょう? すっかりていねいに移さなければいけない。そのとき御酒御饌<みきみけ>を上げて善言讃詞を称え、「今度かくかくの事情で墓所をお移しいたしますから、いままでここに鎮まっておられた御霊様<みたまさま>御一同、新しい所へお移りくださいますようお願い申し上げます」と断ればよい。酒を上げるのは、先祖には酒呑みもいますからね。
昭和二十三年二月二十八日 御講話(6) 光録(補)
〔 質問者 〕こんなことがございました。別府で先日御光をいただいた女の人、以来心から先祖をお祀りしていましたところ、一月ほどしたある日、お経を上げていますと霊が憑った。ちょうどそこへ階下から主人が上ってまいりさっそくお伺いしますと、それは母親で、言うことには「自分達はいままでろくに祀ってもらえず霊界でルンペン同様で実に苦しかった。今度ありがたい御守りをいただきよく祀りをしてくれて実に嬉しい。今後ともこの道を離れることなく祀ってほしい」と言って去ったそうです。
昭和二十三年四月八日 御講話(5) 光録(補)
【 明主様 】原則としては面識のない祖先は先祖代々之霊の中へ入れていい。面識のある人のは位牌を作って祀る。が、多くなったら古いのから整理したらよい。勿論そのときはお祀りをする。位牌はいくら小さくてもいい。これは大黒様とは違います。しかし等級をつけねばいけない。例えば子のよりも親のほうを大きくするというふうに。
昭和二十三年五月十八日 御講話(4) 光録(補)
【 明主様 】結構です。先祖が光明如来の光を浴びるから霊界での向上が早い。
昭和二十三年六月二十八日 御講話(9) 光録(補)
手を合わせてから頭を下げるほうがよい。お供えものは人間のほうへ向け人間が見やすいようにするのが本当です。神と人間と両方満足するように。ドイツの哲学者のオイケンはこれについて「人間が満足するために神を祀るのである」と主張していました。気持ちをやはり神様に上げることです。神様のお供えには箸はいらない。御先祖には向こう側(仏様の側)に箸をつける。観音様の御軸に対するお供えは箸を観音様のほうにおいたらよろしい。お供えものを神様は召し上がるというより霊を入れてくださる。祖霊は食べます。お供えしておく時間はあまり長すぎてもいけずすぐ下げてしまうのもいけない。お供えして祝詞を上げてそれが終わったら下げたらよろしい。
昭和二十三年六月二十八日 御講話(11) 光録(補)
〔 質問者 〕夫婦の先祖の霊を同じ仏壇にお祀りしてもよいでしょうか。
いいです。そこの夫の先祖の次の位に祀ったらよい。夫婦の霊は片方だけでなく必ず一緒にして祀らなければいけない。妻は妻の先祖を祀ればよいが、主人は先祖のほか、亡くなった兄弟なども祀る。位置は左が上座です。
昭和二十三年七月八日 御講話(6) 光録(補)
守護神を祀るのはいいんですが、いいけど祀らなくてもいい。それほどのことはない。守護神は祀ってもらうよりその人間がいいことをしてくれたほうがよい。先祖のうち救われた霊が守護神となり、始終ついていて指図や神様へのお取り次ぎをするのです。龍神や狐もある場合にはつきます。狐が憑いて口をきくのも守護神に頼まれることがある……人霊より狐霊のほうが便利なことあるから……狐だからって馬鹿にはならない。
昭和二十三年七月二十八日 御講話(18) 光録(補)
寄せ位牌をするのはうそです。面識のある人の位牌は一体とし、面識のない人の分は先祖代々の中に入れてもよい。
昭和二十三年九月二八日 御講話(1) 光録(補)
〔 質問者 〕先月二八日〇〇〇〇子を御浄めいたしましたところ、先祖の霊が三人現われ「お前達は信仰が足らない」 「だれが一番足らないか?」「ほとんど全部足らない、みんなを呼べ」と申し「お前達は神を信じない。頭を下げても心では信じていない」とて一家の信仰のないことを述べておりました。狐霊を使って話をしているらしく、この信仰により救われたい様子に思われました。