昭和二十九年三月一日御講話(21)
【 明主様 】そうです。ぜんぜん縁がなければそういうことはないです。「袖すり合うも他生の縁」とはうまいことを言ってます。こういうことは非常に深いもので、何代前に人を助けたりすると、その助けられた人はどうしてもその恩に酬いなければならないのです。そうするとその助けてくれた人がいないとその息子、息子もいないとその子孫と……あるいは助けてくれた人が地獄に落ちて当分出られない、そうすると遅れますが、遅れてもいつかは必ずそうするものです。例えば甲の人が死に、供養します。信者でお祀りします。ところが甲の人は生まれ変わっている場合(生まれ変わらないうちの、霊界にいたときに、籍のような記録のようなものがあるので)、その籍を通じて生きている人に行くので、生きている人に良いことがあるのです。「オレはどうしてこんなに良いことがあったのだろう」「宝クジが当たったのだろう」ということは、どこかしらで、だれかが、霊を供養しているとか、恩返しをしようとしている、それが生まれ変わっていることがあるのです。だからクジが当たるとかいうことでも、偶然ではないので、必ずわけがあるのです。そうかと言って、競輪などで当たりますが、これはまた意味が違います。これは祖先が、どうしても一度家の財産を潰<つぶ>さなければならない。そのために子孫の、ある者は賭事が好きだからあれにやらせようというわけで競輪に行かせるのです。すると最初はうまく当たりますから、その人は夢中になってやっているうちに身上をみんな潰します。それで「やっとオレの所の財産を潰して罪穢れをとったから、ではこれから子孫は栄えるだろう」ということになるのです。
祖霊(みたま)への供養
追善供養<ついぜんくよう>の大切なことはいうまでもないことでありますが、追善を受ける方がどこにおられようとも、行なって差しつかえないものであります。
新霊祭祀の意義
このように新霊さまは五十日を過ぎると、祖霊さまの一員となられるわけですが、ここで一番大切なのは、死後五十日間のご供養ということであります。
それは、その間のご供養の厚薄<こうはく>によりまして行先が多少違う場合があるからです。