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昭和二十九年四月七日御講和(3)

 そういうわけで、最近いろんな霊的の事柄が出てきたのです。この間は、キリストやいろいろな偉い開祖、教祖などの神懸りのことを言ったけれども、あれは京都のほうの若い女性ですが、今度は熱海にいる若い女の人が、やはり霊憑りでいろいろそういうことを言われたのですが、それが京都の人とよく合っているのです。新しい点もありますからいま読ませます。

 これをみると、キリストキリストらしい、バイブルの書き方みたいなことを言われているので、おもしろいと思います。バイブルのいやにくどい所などがよく似てます。そういうわけで、いままでは光を持った人間が現われなかったのです。つまりヨハネが二七五〇年地下<注意 地獄>に苦しんだということは、光というものがなかったからです。それで、光を受けなければ救われないのです。神仏も、つまりこの光をいただきたがって、いま霊界ではたいへんなのです。それで今度奈良に行くについて、あっちの各海、湖水、池などの龍神が次々と京都の人に憑って、その報告が来ました。そういうようなわけで、まあ、光を憧れているわけです。

 それで、いま読んだ中に 「神ならぬ神」ということを言ってますが、これは非常におもしろいと思います。実際いままで神といって拝んでいたのは、実は本当は神ではなかったのです。ですから「神ならぬ神」というのは、うまく言いまわしたものです。そういうわけで、「聖夜」といって、キリストの聖歌でしょうが、これはあまりにキリストを讃えたので、かえってキリストとしては苦しんでいるのです。そこで歌詞を教えたのですが、これで非常におもしろいと思うのは、私は、メシヤ会館ができたら、前から言っているとおり、ヘンデルの作った「救世主<メサイア>」という歌をお祭りやなにかのときには歌って、オーケストラもやるつもりで、舞台の下の所にオーケストラボックスをこしらえましたが、歌うその歌詞は、ヘンデルのような外国語では具合が悪いですから、どうしても日本の言葉でなければならないのです。私が作ろうと思っていたのですが、ところが私が作るということは嘘なのです。私は歌うのでなくて、歌われるほうなのですから……。だから讃えるということが、自分が自分を讃えるようなことになってしまうから、どうしてもなにかしかるべき歌詞が欲しいなと思っていたのです。そうかといって、適当に作れる人はないのです。ところがキリストが作ってくれたのですから、実に結構なのです。そこで私も一安心したわけです。この歌詞もなかなか良くできてます。簡単で実に讃える心持ち、気持ちがよく表われてます。ですからこれを採用するつもりです。そういうようなわけで、これからは、ああいう「神ならぬ神」たちが大いに活動始めますから、どんなことがあるか分からないです。いよいよ本舞台になったわけです。今年から表になるということの最初の一つの現われです。

昭和二十九年四月七日御講話(4)

 それから一週間ばかり前に例のアメリカのグリリ夫妻が、駐留軍の『星条旗』(スターズ・アンド・ストライプス)の主筆の人を連れてきて、いろいろ話し合ったのです。私は五分か一〇分ぐらい会うつもりだったのですが、話をすると、話がばかにおもしろくなって一時間以上話をしました。私は近ごろときどきアメリカの人と話をしますが、話が実によく分かるのです。間に通訳が入っていながら、日本人と話をするよりもよく合うのです。ちょうど私の考えとアメリカの人の考えが一致しているのです。だから両方でうなずき合ってます。ところがどうも日本の新聞記者と話をしていると、先方で分かったのか分からないのかということがよくありますが、アメリカの人はイエス、ノーでやってくるからはっきりしてます。また先方でも、一、二回会うと非常に共鳴して、信者でなくても、私に対する一つのファンみたいになってしまうのです。そのときもいろんな話がありましたが、その話の中で印象に残っているのは、グリリ夫妻が言ったことで「美術館の品物を集めるには、まず五〇年はかかるだろう」ということから、「どのくらいかかったか」と言うからして、「戦後ボツボツ集め始めて、本当に集まったのはまる三年ぐらいなものだ」と言ったところが、驚いて「どうしても分からない。その理由を聞かしてくれ」と言うので、「理由というよりか、奇蹟で集まったのだ」と言ったのですが、それが分からないのです。しかし、霊界における作者やそういう人たちが骨折って、救世教に、御用をさせてもらったというように説くと、これは信者でないとちょっと分かりにくいですから、一番分かりやすく言おうと思って「つまり集まるのも、集まったということはつまり金の力だ。その金が集まったということは、医者から見放された病人や、死ぬばかりになっていたのが助かるというようなことで、その感謝の気持ちでみんなが金を献<あ>げた、それが集まって買うことができた」というように説明したのです。そこで阿部さんが「というのは、弟子や信者が病気を治すことができるという、これが非常に大きなものだ。一人対一人ではないので、治す人を作るということが、いままで例がなかった」という話をしたので、また非常に驚いて、「自分はいままで世界でのいろんな偉い人を見たり聞いたりしたことはずいぶんあったが、みんな、つまり一人対一人か、あるいはただ教えというようなわけで、釈迦、キリスト以上という人の話は聞いたことがない。ところがキリストぐらいの奇蹟をやる弟子を多く作るということは、おそらく見たことも聞いたこともない。そういう点において実に驚いた」というようなことを言ってました。そこでやっぱりアメリカの人らしいことを言います。「明主様をどうこうと批評はできない。もし相手を批評するとしたら、相手と同程度かそれ以上の人でなければ批評はできない。ところが明主様は人間よりずっと上としたら、ただそれをありのまま感じるだけのことで、批評ということはできない」ということを言ってましたが、これは非常に正直な言い方です。日本人はあんまりそういうふうには言わないのです。言わないどころではない、テンデ考え方が違ってしまっているのです。日本の新聞記者とすれば、まず「救世教という、岡田という奴はなかなかだ。戦後の混乱状態に便乗して、うまく大勢を瞞<だま>しやがって、金を儲けて、こんなものを造るナンテ、これは怪物だ、腕のある奴だ」というように思うでしょう。下から上を見上げるような言い方は決してしないです。新聞雑誌を見ても分かるとおり、ちゃかしたような、愚弄したような見方をします。それはちょうど新聞記者自身のほうが「救世教の岡田という奴より上だ、だからオレの筆の先でいい加減に書くだけの人間だ」というように見ているわけです。だからアメリカの人との違いさというものはたいへんなものだと思います。そのことを書いてみました。

昭和二十九年四月七日御講話(4)

 それから一週間ばかり前に例のアメリカのグリリ夫妻が、駐留軍の『星条旗』(スターズ・アンド・ストライプス)の主筆の人を連れてきて、いろいろ話し合ったのです。私は五分か一〇分ぐらい会うつもりだったのですが、話をすると、話がばかにおもしろくなって一時間以上話をしました。私は近ごろときどきアメリカの人と話をしますが、話が実によく分かるのです。間に通訳が入っていながら、日本人と話をするよりもよく合うのです。ちょうど私の考えとアメリカの人の考えが一致しているのです。だから両方でうなずき合ってます。ところがどうも日本の新聞記者と話をしていると、先方で分かったのか分からないのかということがよくありますが、アメリカの人はイエス、ノーでやってくるからはっきりしてます。また先方でも、一、二回会うと非常に共鳴して、信者でなくても、私に対する一つのファンみたいになってしまうのです。そのときもいろんな話がありましたが、その話の中で印象に残っているのは、グリリ夫妻が言ったことで「美術館の品物を集めるには、まず五〇年はかかるだろう」ということから、「どのくらいかかったか」と言うからして、「戦後ボツボツ集め始めて、本当に集まったのはまる三年ぐらいなものだ」と言ったところが、驚いて「どうしても分からない。その理由を聞かしてくれ」と言うので、「理由というよりか、奇蹟で集まったのだ」と言ったのですが、それが分からないのです。しかし、霊界における作者やそういう人たちが骨折って、救世教に、御用をさせてもらったというように説くと、これは信者でないとちょっと分かりにくいですから、一番分かりやすく言おうと思って「つまり集まるのも、集まったということはつまり金の力だ。その金が集まったということは、医者から見放された病人や、死ぬばかりになっていたのが助かるというようなことで、その感謝の気持ちでみんなが金を献<あ>げた、それが集まって買うことができた」というように説明したのです。そこで阿部さんが「というのは、弟子や信者が病気を治すことができるという、これが非常に大きなものだ。一人対一人ではないので、治す人を作るということが、いままで例がなかった」という話をしたので、また非常に驚いて、「自分はいままで世界でのいろんな偉い人を見たり聞いたりしたことはずいぶんあったが、みんな、つまり一人対一人か、あるいはただ教えというようなわけで、釈迦、キリスト以上という人の話は聞いたことがない。ところがキリストぐらいの奇蹟をやる弟子を多く作るということは、おそらく見たことも聞いたこともない。そういう点において実に驚いた」というようなことを言ってました。そこでやっぱりアメリカの人らしいことを言います。「明主様をどうこうと批評はできない。もし相手を批評するとしたら、相手と同程度かそれ以上の人でなければ批評はできない。ところが明主様は人間よりずっと上としたら、ただそれをありのまま感じるだけのことで、批評ということはできない」ということを言ってましたが、これは非常に正直な言い方です。日本人はあんまりそういうふうには言わないのです。言わないどころではない、テンデ考え方が違ってしまっているのです。日本の新聞記者とすれば、まず「救世教という、岡田という奴はなかなかだ。戦後の混乱状態に便乗して、うまく大勢を瞞<だま>しやがって、金を儲けて、こんなものを造るナンテ、これは怪物だ、腕のある奴だ」というように思うでしょう。下から上を見上げるような言い方は決してしないです。新聞雑誌を見ても分かるとおり、ちゃかしたような、愚弄したような見方をします。それはちょうど新聞記者自身のほうが「救世教の岡田という奴より上だ、だからオレの筆の先でいい加減に書くだけの人間だ」というように見ているわけです。だからアメリカの人との違いさというものはたいへんなものだと思います。そのことを書いてみました。

昭和二十九年四月十一日御講話(名古屋市金山体育会館において)(1)

 それについて気がついたのですが、このことについては信者の人も知っておく必要があると思うのです。というのは、この水素爆弾というものは、考えようによっては良いほうと悪いほうと両方にとれるのです。この間アイゼンハウアー大統領が、たしか今月の一日ごろと思いますが宣言をしました。それは「水素爆弾というものはたしかに恐ろしい。しかしこれは使う人の目的によって恐ろしい物にもなれば、またさほど恐れる必要はない」ということを世界に向かって宣言しました。あれはまったくそのとおりです。つまり武器として使ったら、それこそさっき言ったとおり一大恐怖です。どのくらい人類に、被害……どころではない、もうほとんど人類の絶滅と言われるほどの恐ろしいものです。けれども、そういった戦争のような武器という意味で使わなければ良いのです。では、戦争の道具に使うということは、善悪とすれば結局悪に使うから人類に災害を与えるのです。これを善に使えば良いのです。いまのところ善に使うという工夫はできていませんが、これは研究すればたいして難しいことはないのです。いずれにせよ、結局火力ですから、つまり強い、いわば太陽です。「太陽を取られた」と言われてますが、太陽の熱のごく集中されたものです。熱の一つの大きな固まりを作るわけです。それを善いほうに使えばたいへんな良い働きをするわけです。勿論それは動力です。これが発達すれば、わずかな手数と費用でどんな大きな動力でもできることになると、それこそいま一番多く使うのは電気ですが、その電力などもアレによって非常に簡単にできるわけです。ですから結局悪に使わないようにするということなのです。そこで悪に使わないとすれば、悪の思想、観念を人間から抜けばよいのです。しかしぜんぜん抜くということはできませんが、悪より善のほうが勝っていればよいのです。いつも言うとおり、悪が四で善が六ならよいのです。悪の制御です。その制御の力がないから恐ろしいのです。すなわち水素爆弾が恐ろしいというよりか、人間の悪を制御することができないというほうが恐ろしいのです。悪を善にする力はどうすればよいかというと、そこにつまり宗教の価値、生命があるわけです。だから悪を淘汰するというよりか悪を弱らせる力が必要です。それが宗教の役目です。しかしてそれだけの力ある宗教は出なかったのです。出なかったからこそ悪のほうが淘汰されないで、思いきってやるとそこに水素爆弾ができたからして、いよいよ危ないということになったのです。悪を弱らせる力がないとすれば、ここに宗教家の役目というのが一番重大な問題になってくるわけです。そう見てきますと、その力のある宗教はあるかというと、私はあると言う。一つあるのです。それは、口はばったいことを言うようですが、それが救世教です。悪の力を抜く宗教、悪を制御する宗教、悪を弱らせる宗教、それは救世教より他にないのであります。では、いったい救世教というものはどういう方法でそういうことができるかというと、それが光です。つまり光のある宗教、光のある教祖なり宗教家というものは、いままで地球上に出なかったのです。その出なかったということは、なにによって分かるかというと、これもはなはだ大きな話ですが、ちょっと信じられない話です。けれども、本当のことですから言わなければならないわけです。救世教の人たちは分かりますが、そうでない人が聞いたら「ああいう大きなことを言うのは、あいつは山師か、頭がどうかしている」と言うでしょうが、これは本当です。それはなにかというと、最近キリスト、釈迦、マホメットという偉い人たちがみんな私に救ってくれと言ってきているのです。

 その一例をあげますと、最近キリストがある若い婦人に憑ってきて、この間私は浄霊をしてやったのですが、浄霊するかしないうちに、涙を潸然<さんぜん>と流して、実に感謝に堪えない態度です。長い間霊界で非常に苦しんだのです。しかし「今度はお救いいただいてありがたい、嬉しくて嬉しくてしょうがない」と言ってシャクリあげて泣くのです。しばらく話ができないので、その間待っていたのです。そういうことが二度ありましたが、聞いてみますと、キリストが憑ったときには、やはり磔<はりつけ>の苦しみがあって、そうしてよくキリストの磔の像で、こういうように首を曲げておりますが、やっぱり首を曲げるのだそうです。どうも首をなにかで押さえられたような、非常に苦しいそうです。それは、つまり磔に遭ったから苦しいのです。つまりその苦しみがすっかり取れないのです。取れないということはなぜかというと、光がないからです。それで、この婦人は去年頭がおかしくなって私が治してやったのです。それでまだ固まりがあるので、ときどき来いということで、ときどきやってやったのです。するといつの間にかキリストがそれに憑って、いつの間にか良くなったというのです。それからマリアですが、マリアは、自分の息子が救っていただいたというので二、三度出てきましたが、非常に感謝してました。それから順々に出てくるのです。ヨハネも出てきましたが、ヨハネは二七五〇年霊界で苦しんでいたが救われたと言って、非常に感謝してました。最近はキリストの弟子でなかなか偉い人でヤコブというのが憑ってきました。そういうわけで、マホメット、孔子、お釈迦さん、日本では弘法だとか親鸞などが憑りました。続々憑ってくるのです。そしてなにが欲しいかというと、光が欲しいのです。私がちょっと浄霊をしてやると、光を受けますから救われます。だから光を求めて世界中からやってきているみたいです。光を受けることによって悪を制御することができるのです。そういうわけで、いまのような偉い、人たち……でもないですが、神たち……でもない、そういう聖者たちが救世教のために大いに働くというのです。いままでも働かしていただきたかったけれども、穢れがあるので、曇りがあるので働けなかったが、今度曇りを取っていただいたから大いに働けるというので、みんな勇んでいるのです。ですからそういう、つまり八百万の神様と言いますか、束になって活動しますから、いかに世界中に大きな発展ができるかということがよく分かるのです。

 そこでいま話した悪ですが、水素爆弾を恐れるという根本を言うと、つまり、作ったのはアメリカですが、アメリカがなんのために作ったかというと、ソ連に対する脅威で、これを恐れているのです。知っているとおり、世界はアメリカとソ連との戦いみたいです。そのために水素爆弾というものができたのです。ソ連が恐ろしいということは、ソ連の世界制覇とか世界を共産化するという、そういう考えを抜けばよいのです。けれどもこれもおかしな話ですが、そういった死んだ霊ばかりでなく、生きている霊、生霊が霊界でみんな一々呼ばれて、私の代理の神様が呼んで一々説得したわけです。ところが霊のほうは知っているのです。もう自分は考え直さなければいけないということで、マレンコフなどはつまり改心したのです。これから心を入れ変えて、救世教の目的の、人類の救いのために大いに働くからということを宣言してます。その他世界の偉い人たち、アイゼンハウアーとか、東洋特にインドのネール首相などが呼ばれました。その他いろいろとたくさん出てきましたが、これは順次『地上天国』に出ます。そういうわけで、死んだ霊、生きた霊両方とも、救世教の神様と言うとおかしいですが、これはキリスト教のエホバです。それから「東方の光」と言う人もありますが、それによってみんなきれいに掃除をされて、そうして清浄で働くわけです。これはよほど偉い人はみんな知っていまして、キリストの「天国」とか、いろいろと予言されたのを待っているのです。いよいよ待っていた本当に世界を天国にするという事業が始まったというので、我勝ちにやらしてもらいたいとて集まりつつあるのがいまです。だからして不思議なようなことで不思議はないのです。当然来たるべきことが来、時節が来たというだけの話なのです。それがためにあなた方が光を分け与えられて、たしかに人を救うという確信を得られるという、こういういままでにないようなことも、それがためだということが納得ができるわけです。そういうことを知ってこれからやると、またいろいろな説明やなにかの場合に、先方を分からせ納得させるというのに、たいへんな大きな力になります。ちょうど、前にも言ったとおり、中京という所は神様のほうでも非常に重要な所です。西と東の真ん中で中京と言ったのですが、私のやっていることは、伊都能売<いづのめ>の働きですから、東と西の働きです。その真ん中の働きです。救世教のバッジが十文字で、真ん中が赤いのは日本です。昼間の世界です。中の黄色いのは、本当は金です。救世教になるわけです。それで、十の、緯<よこ>は体的文化で、経<たて>は霊的文化であり、その経と経とを結ぶというわけです。アメリカと日本を結ぶということが根本です。近ごろアメリカの新聞記者とか、そういう人がだんだん増えてくるのです。そして話がよく分かるのです。だから信者でなくても私の仕事に働かしていただきたいという、そういう人がアメリカの知識階級の中にも増えつつあるのです。それもやはりいま言ったことの一つの現われです。

昭和二十九年四月十二日御講話(奈良県公会堂において)(1)

 ところで、もう一つ話したいことは(これはぜひお話ししなければならないし、非常におもしろいことです)、信者なら分かりますし信じられるが、信者でない人は、おそろしく手前ミソのように思われるのです。なぜかというと、今度私が奈良に来るについて、奈良の各山の龍神さん、神社、仏閣の、尊、何の神様、何の如来という、神、仏の霊たちと、それから守護の龍神と、龍神になっている神様、そういう方々は非常に喜んで、今日は霊界では歓迎しているのです。これはいずれ『地上天国』にも出ますが、さっき天候でチャンと挨拶したのです。雨が降ってたのが止んできたのです。ちょうど奈良に来るときに日が照ってきたのです。あれは挨拶です。今日は雨が降るに決まった日ですが、龍神さんの歓迎の意を大いに表明するには天候よりしようがないので、「ああ、やったな」と思ったのです。近ごろあらゆる神、仏が非常に喜んで、キリスト、マホメット、釈迦、ヨハネといろいろな神様が出てきます。ここに来るちょっと前にもいつもの婦人に、マリアとキリストが出ましたが、実に喜んで、口から出る言葉のあらゆる讃詞を呈しているのです。実にその喜びの情というものが溢れているのです。他のあらゆる神、仏も、みんなそういうふうです。とにかくみんな、私が出るのを何百年何千年前から待っていたのです。だから奈良の各地の龍神が喜んで、私がここに来るときに御挨拶に伺うと言ってましたが、なにしろ霊ですから始末が悪いのです。私に感じるだけで形がないのですから。けれども間違いないということは分かるのです。そういうわけで、これから救世教は目覚ましいものがあるのです。そうするとあなた方も忙しくなりますから、いつも言っているとおり、大いにフンドシをしめなければならないと思ってます。そういうようなわけで、霊界はだいたいほとんどミロクの世になったのですから、これから現界に写ってゆくわけです。その中でおもしろいのはマレンコフです。さっきの話に関係があるというより根本ですが、マレンコフ、モロトフというああいう連中も、自分がいままで間違ったことが分かったと言っています(これは生霊です。生霊と死霊と両方ありますが、生霊のほうは自由に呼ぶことができるのです)。私が静岡の留置所にいるときにだいぶ呼びました。そのときスターリンを呼びましたが、スターリンはどうしても駄目です。他の人は「そうなります」とか「時期を待ちます」とか言ってましたが、スターリンはガンとして駄目でした。スターリンは最低地獄に落ちて何千年もいなければならないのです。結局そこまでゆくと改心しますが、一番遅いでしょう。というのは執着が強いですから。そういうわけで、世界が、悪を制御するだけの善の力が増えるという、そういう魂の人間が増えますから、そこでさすがのスターリンも「駄目だ」と言って改心するのはしますが、一番ドンジリになります。いよいよ本当の地上天国、ミロクの世の圏内に入るわけです。これは事実がこれからドンドン現われますから、いよいよ本舞台になったわけです。それからこれはおもしろい話ですが、「東方の光」ということになってます。結局人を救うには、人ばかりでなく霊にしろいっさいを救うには、まず光です。いろんな霊というものは光を求めてくるのです。御光をいただきたいと言って求めてくるのです。光で救われるのです。キリストでさえいままでずいぶん苦しんだのです。キリストが憑ると首を曲げるのですが、十字架の絵にあるように、首を曲げるのです。それはそのときになにかで縛られたか、あるいは死んで下に落ちて、その上になにか物がのったとかしたものです。つらいそうです。そして十字架の磔<はりつけ>になったときの痛みはほとんど取れたが、まだ首が曲がっているのは、少しあるようです。最初はだいぶ痛かったようですが、それも取れて、キリストが非常にありがたがっているのです。マリアとしても、自分の息子ですから、伜<せがれ>が助けられたというので、非常に喜んでいます。

 時間がなくなりましたから、このくらいにしておきますが、いまお話ししたのはあんまり大きな話ですから、よほど信仰がしっかりしていないと信じられないです。信仰のない人が聞いたら馬鹿馬鹿しくて鼻の先で笑うかもしれませんが、本当なのです。あなた方はそうでもないでしょうが。これからそれが形に現われてきますから、それをある程度まででも信じさせるのがたいへんです。いままで何億という人類が拝んできたキリスト、釈迦を私が助けたというのですから、「そんな人間が現われることはない、頭がどうかしている」と言うかもしれません。あなた方はふだんから知っているでしょうが、それを「これだ」という所までゆけば、魂がすっかり固まったのですから、そうするとそれによってその人の力が強くなるのです。それこそ私の代理として立派に力をふるい、仕事ができるわけです。だからいま言ったことをよく心に入れて大いにやってください。

明主様と御対談(一)

【 明主様 】 そうです。だいたい宗教では本当に救われないです。もし宗教で救われるのなら、もう世界中が、キリスト教か仏教で救われて天国の世になっていなければならないです。ところが、いまもって病気、貧乏、戦争が絶えないということは、それでは救われないということになります。しかし、なかったらもっとひどい世の中になり、どんな野蛮なことになるか分からないです。ですから、あれだけのものがあったためにどんなに功績があるかということは言えますが、これ以上のことはないです。そこで私のほうで超宗教的力を持ってやるというわけです。

明主様と御対談(二)

【 明主様 】 主神<すしん>と言いますが、最高の神様です。最近のことですが、ある人にキリストが憑って、この神様によって救われてます。

【真山氏】 先ほどのお話に、キリストにお会いになられたそうですが、それはキリストがしゃぺるということは分かりますのですか。

【真山氏】 キリストの他には。いろいろお会いになりましたか。

【 明主様 】 いままで自分は間違っていた、非常に悪いことをしたというのです。それで地獄のドン底に落ちたのです。その地獄のドン底というのは、キリスト教では煉<ママ>獄、仏教で言う最低地獄、神道で言う根底の国で、光がなく真っ暗で、光も熱もなく、それはたいへんなものです。どんな者でも改心します。私は地獄のそういった霊をいくども救ってやりました。スターリンは難しいだろうと思っていたのです。これは、私が静岡の、四、五年前に留置所に入ったときにそういった連中をみんな呼んだのです。それは生霊といって生きた人を呼べるのです。それでスターリンを呼んで共産主義の間違っていることをいろいろ言ったが、どうしても駄目だったのです。毛沢東などは素直に言うことを聞きました。

御講話

 ところが、観音様はそんなことは関係はない。なんの宗教だろうが関係がない。祖先の趣く所へ行く、血の池地獄などにいても。キリスト教ならば、イエスの側とかキリストの側など行きたい所へ行ける。これは要するに自由無礙の観音様のお働きの一部であります。でありますから、観音会へ入ると必ず病気は治る。祖先は喜ぶ。観音様は天国の一番上におられるから、観音様は最奥天国の主宰者であるから、一番よく分かるわけである。