春季大祭御教え 昭和二十九年三月二十三日御講話(1)
これについて、昨日非常におもしろいことがあったのです。それはある若い女ですが、去年少し頭がおかしくなった若い妻君ですが、私が治してやったのです。それでまだ少し頸のまわりに毒が残っているので、ときどきやってやったのです。昨日やってやりますと、いろいろ不思議なことがあるので話を聞き始めたのですが、ポロポロ涙をこぼして、後から後から出てくるので、口がきけなくなり、それで少し待って聞いてみると、キリストなのです。やっぱり、磔<はりつけ>になって長い間それが治らなかったのです。少しずつはよくなってきたようですが、すっかりは良くならなかったのです。私が浄霊してやるのですっかり治ったのです。非常に嬉しいと言うのです。それで「天の父にお目にかかれて、こんな嬉しいことはない」というようなことを言ってずいぶんありがたがっていました。その他二、三話がありましたが、たいしたことはありません。ただヨハネですが、聞いてみると、この間中からヨハネはときどき憑るのです。それでやっぱりヨハネは救われたというので、私に礼を言ってくれということを言っていたそうです。そのうちに、キリストが磔になった、あの霊が見えてきたのです。ときどき部屋のほうぼうに見えるのだそうです。そうこうしているうちに、キリストが、いま言ったようなわけなのです。さっき読んだのといま話したのとはぜんぜん違う婦人です。だからぜんぜん連絡はないわけです。そういうようなわけで、霊界におけるいろいろな偉い人たちというか、神たちというか、いよいよこれから活動するわけです。いま読んだようなわけで、総掛かりでやるわけだから、本当の線に発展して行くわけです。つまり時節が来たわけです。この前には現界のいろんな偉い人が憑りましたが、特に変わっていることは、スターリンは憑らないのです。それで、スターリンは救われないというのです。つまり地獄の下、根底の国に六千年若しむのだそうです。これは霊界の最高の罪がそうなってます。現界で言うと無期徒刑です。それで六千年後に滅びると言いますか、その先ほ必ずしも復活するということではないらしいのです。マレンコフは、神様はいよいよ活動されるということがだいたい分かって、つまり改心したわけです。ああいう人が改心すると、力がありますから、将来良い働きをするわけです。そういうようなことが出ました。勿論しかしマレンコフとか部下の者が良い働きをするようになると、それだけスターリンも救われるわけですから……。またそこまでゆけば、どんな霊でも改心しますから、結局罪一等を減ずというような具合で、だんだんに救われてゆくわけです。これは現界におけるそれと同じようなものです。それでいま霊界では救われたがって、いろんな霊にだんだん分かってくるのです。その現われとして、近ごろになってから容易に得られないような美術品が来るのです。しかもとても値段が安いのです。道具屋がびっくりしているのです。とにかくチョッと不思議なくらいです。それはどういうわけかというと、前にも話したが、名人とか、あるいはそれを持っていた大名という人たちが、一品でも救世教に入れるという、それによって自分たちが救われますから、たとえてみれば、一品が救世教の美術館に出るようになると、その手柄によって霊界において位が上がるのです。位が上がるというと救われたようですが、中には地獄に落ちているのもあるし、八衢<やちまた>にグズグズしているのもあるし、そういうのが一段も二段も上がるのです。ですからそういう手柄を立てたいと思って一生懸命なのです。私のほうでは坐っていて、とても得られないような品物が不思議に来るのです。一昨日は、御舟<ぎょしゅう>の、展覧会の全部の品物にもないような物がパッと来たのです。これは青森県の人がよほど前に手に入れていたとみえて、いま非常に高くなったということをあまり知らないとみえて、金が急にいるというので半分値以下で売りに来たのです。これらもとにかく御舟としては、私はこれ以上の物は見たことがないです。この間の松坂屋の展覧会でも、一〇〇点以上ありましたが、その中にもないほどの良い物です。これもまったく霊界で御舟が一生懸命に運んだわけです。そういうようなことがときどきあるのです。ですからいまに熱海の美術館ができるとびっくりするわけです。絶対に売らないと言っていばっていたようなものが、ヒョロヒョロと入ってくるのです。ですから非常に楽に入るわけです。従って、無論美術館などは、とにかく世界中の話題に上るわけです。いつも話をするアメリカの人たちも、美術館に非常に期待しているわけです。将来なかなか大きな計画をしているらしいです。つまり私のほうを中心として、文化的のユネスコみたいなものを作ろうということを考えているらしいのです。無論そうなるわけです。
昭和二十九年三月二十四日御講話(1)
こういうような具合で、これからそういう霊たちが大いに働き出しますから、よほどおもしろくなってきたわけです。それについて一昨日、ある信者の若い妻君で、去年精神病的なようになって、私が治してやったのです。それでときどき浄霊してやっているのですが、一昨日来たときにキリストが憑っていたのです。いままで磔<はりつけ>になっていて、それを治す神様がなかったのです。それでそうとう長く苦しんでいたのです。いくらかずつは良くなっていたが、なかなかすっかりは良くならないのです。ところが私がときどき浄霊するためにすっかり治ったのです。それで、非常に嬉しいということと、キリストが言うには「懐かしい天の父にお目にかかれた」というようなことを言って、ポロポロ涙をこぼして嬉し泣きに泣くので、口がきけなくなって、泣き止むのを待っていたぐらいです。そういうような具合で、いまの神懸りとチャンと合っているわけです。そういう時期が来たわけです。私が前に歌で「神や仏を救わなければならない」ということを始終言いましたが、そういった救われる時期がいよいよ来たのです。やはり神様仏様が元ですから、神様仏様が救われなければ、人間は救われないのです。つまりいままでの神様や仏様というのは本当のことを知らなかったために、間違った教えや事を説いたわけです。バイブルにしろ経文にしろ、ずいぶん間違った所があるのです。そのためにいくら研究しても本当のことが分からないからして、覚りを開けなかったわけです。またそのために、人間が本当のことを知らなかったのです。つまり文明というものが間違って、それで人間が苦しみ抜いてきたわけです。例えば医学にしろ、ぜんぜん間違ったことをやっていたということなど、そのために人間が病気で苦しんだり、早死にしたりするということなども、元は本当のことが分からなかったためです。ということは、本当のことが分かってはいけなかった主神<すしん>の経綸なのですから、それでよかったわけです。それをもう本当に分からせて、本当の文明を作らなければならないという時期が来たということも、やはり主神の経綸なのですから、やはりそれでよかったのです。これからの人類、人間は、本当の幸福というものを得られるわけです。その役目が救世教です。ですから「来たるべきものが来た」というわけです。いままでの間違った世の中が続いてはいけない経綸からそうなったのです。だからそれがどうこうということは人間には分からないのです。いまちょうど、いつも言うとおり、夜の世界が昼間になる、その分かれ目なのですから、実に重大な時期であるとともに、その役目に選ばれたる救世教の人たちは、まずたいへんな仕合せなわけです。人類始まって以来ない幸福と言ってもよいわけです。そういうようなわけで、著しい霊界の変わり方が最近非常にはっきりしてきたわけです。
それから、さっきの霊の話で言い忘れたことがあります。キリストが憑った婦人がこの間中、キリストの磔の像、そういうのが部屋の所々にときどき見えるのだそうです。ですからはっきりしているわけです。その前にヨハネが漁ったのです。いずれヨハネのことも聞くつもりですが、一昨日のことですから私も急いでいたので、ただヨハネということだけを聞いたので、それ以上は聞かなかったのです。ヨハネとキリストとは切っても切れない関係で、『旧約聖書』はヨハネが言ったことで、『新約』のほうがキリストです。それでヨハネはキリストが現われるという一つの予言が一番の中心です。このことなども別にたいして詳しく知る必要はないが、いずれ知れたら『地上天国』に出します。そういうようなわけで、ヨハネとキリストが本当に霊界で働き出したら、外国のほうが分かりだすのが早いです。神様は抜け目なくやっているわけです。
それから世界紅卍字会<こうまんじかい>というのが、近ごろ私のほうでも関係して、月に一回ずつ集まりがあります。紅卍字会の主宰者の神様は至聖先天老祖<しせいせんてんろうそ>という神様ですが、この神様は、いつかも話したとおり、扶<フーチ>といって不思議なことをやって字を書くのですが、そのときに文字を書かせるのは老祖さんの指図によって、キリスト、釈迦、孔子です(そういった七人か八人かですが)それを指図して書かせるのです。扶は私は一度見たことがあります。そういうわけで、つまり私がこれから至聖先天老祖の役をするわけです。ですからその指図で働く神様たちが、さっき読んだとおり現われて、さっき読んだとおりのことをしゃべったわけです。これは支那を救うためのごく基本になるわけです。西洋はキリスト、マホメットがこれから骨を折って、東洋はいま言ったような釈迦、マホメット、孔子というような霊が働くということに、これからなるわけです。そのために今度憑って、それで憑った人は娘さんが二人です。それですからそういうことにぜんぜん無関心で、知らない人がかかるのですから、かえってよいです。そういうことを知っているような人だと、やっぱりその人の腹で作ったように思われますが、神様は如才<じょさい>なく、そういうことをぜんぜん知らない人を選んでやるわけです。
春期大祭御教え 昭和二十九年三月二十五日御講話(1)
まだ他に、現界の偉い人たち、マレンコフだとかアイゼンハウアーだとか、そういう人たちのは、今度の『地上天国』に出すつもりです。そういうのは生きている人ですから生霊です。 こういうような具合で、霊界ではなかなかたいへんなのです。これについておもしろいことがあります。二、三日前に、信者の若い妻君で、近所にいるのですが、去年ちょっと精神病的になって、私が治してやって、もうすっかり治ったのです。それでまだ悪い所がちょっとあるのです。頸のまわりに固まりがあるので、ときどきやっているのです。それで二、三日前に来たときに、浄霊を始めると涙をポロポロこぼして泣き出したのです。たいてい分かってますが、聞いてみるとキリストだと言うのです。それで「いままでの苦痛をすっかり治していただいた。しかも天の父様にお目にかかれることになったので、嬉しくて嬉しくて、話ができない」と言うのです。なにしろ涙をポロポロこぼして話もできなくなったので、しばらく待っていたのです。そのうちに話ができるようになって話を聞いたのです。そうしてみると、磔<はりつけ>になったのが、いままですっかり治っていなかったのです。多少は治っていたのでしょうが、その苦しみで、そうとう長い間地獄にいたのです。それが私の浄霊によってすっかり治って、非常に嬉しいのです。ですからこれから大いに働かしていただきたいということをしきりに頼んでました。なお聞いてみるとこの間中、キリストが磔になった霊が、そこの家の部屋のほうぼうにときどき見えるのだそうです。そういうわけで、つまりキリストが救われたわけです。それによって、これから世界的に外国のほうへ大いに働くわけですから、非常に結構なわけです。また本人に聞いてみますと、なんでも一カ月か二カ月前にヨハネが憑ったそうです。それでやっぱりいろんな話があったそうですが、いずれ聞いてみようと思ってます。そのときは急いだものですからそれっきりで止<よ>しましたが、とにかくいま読んだ神懸りの人とはぜんぜん違うのですから、それがかえっておもしろいです。それでキリストが憑った人は、クリスチャンでもなんでもないのです。いままで別に信仰がなくて、救世教には何年か前に信者になったわけです。それから、最近伊弉冊尊<いざなみのみこと>も憑ったそうですが、それもいずれ詳しく聞いてみようと思ってます。そういうようなわけで、霊界がいかに変わってきたかが分かるのです。いま読んだように、マホメットとか釈迦、そういう霊がいよいよこれから、つまり救世教のために働くわけです。
ですから「救世教はふつうの宗教ではない、たいへんなものだ。救世教のやっていること、言っていることより他に、本当に国家社会を良くする道はない」というところまで分からなければならないし、それが一歩一歩事実において前進しているわけです。なにしろ救世教というものは、いままでの宗教や科学、そういうものと非常に違っているのです。違っているということは、すばらしいものだということだからして、むしろいままでのいろんなことよりか反対が多いのですから、それを短期間に分からして、つまり頭脳の逆転と言いますか、頭脳革命をするのですから、とてもたいへんなものです。けれどもそれをやるのが最高の神様ですから、とうてい人間の考えや想像では分からないわけです。だから地上天国にしろ、わずかの間にあんな立派なものができてしまうということにしろ、今後もう数年のうちに世界的の注目すべき文化事業です。だからアメリカの二、三の新聞記者などはできあがるのを非常に待っていて、できたら大々的に世界的に宣伝すると意気込んでいるわけです。これは別にこっちで頼んだわけではないので、先様のほうでそういった力コブを入れてくるのですから、非常におもしろいと思います。外務大臣などにもずいぶん話をしているらしいのですが、本当に知れだしたらたいへんなわけです。それで前にも言ったとおり、熱海の地上天国ができるということは、世界的の地上天国のごく根本の型なのですから、これができると霊界ではたいへんなことになるのです。ですから神様のほうでも、チャンとそういった深い計画のもとにやられているのですからして、つまり開館が延びるということも、そういう世界中のいろいろな準備、そういう関係もあるわけです。それで、さっき読んだように、キリスト、釈迦、マホメットなどという、ああいう、とにかく人間的にいっても偉い人たちが働くということは、いかに大きな働きができるかということはよく分かるのです。ですからたとえてみれば、キリスト教などの、二千年も前から根を張ったものが一挙に引っ繰り返るということなども、人間ではとうてい想像もつかないのですが、それを開いたキリスト自身が働けばなんでもないのです。そういうようなわけで、いよいよわれわれの仕事というものが、世界の本舞台に上がるときが目前に迫りつつあるわけです。
昭和二十九年三月二十六日御講話(1)
これについて四、五日前にチョットおもしろいことがあったのです。それは私の仕事をしている、ごく近くの信者の若い妻君ですが、去年頭が少し変だったのです。それを治してやって、まだ頸のまわりにだいぶ毒があるので、ときどきやっているのです。四、五日前に来て、これからやろうとすると、涙をポロポロこぼして非常に泣くのです。もっとも、前からある程度は分かっていたのです。というのは、キリストが憑るのです。そのときにもやっぱりキリストが憑って、私が質問しても、こみ上げて泣くのでしゃべれない。しばらく待っていたくらいです。そうするとやっとしゃべれて、自分は長い間非常に苦しんでいたと言うのです。それが私によって救われて非常に嬉しいというわけです。それはなにかと言いますと、磔<はりつけ>になったのがまだすっかり治りきらなかったのです。それでずいぶん苦しんでいたのです。それが浄霊によってすっかり治った、その感謝です。それからもう一つは、「ようやく天の父に会うことができた、それが非常に嬉しい」という、その両方の嬉しさで、つまり嬉し泣きです。そのようなことがあったのです。それで聞いてみますと、近ごろその女の部屋に、キリストが磔になった姿の霊がときどき見えるのだそうです。それからそのときの話に、ヨハネは一、二カ月前からときどき憑ったようです。それで詳しく聞こうと思ったが、私は忙しかったので、いずれそういう点も聞いてみようと思ってます。この人はさっきの霊憑りの人とはぜんぜん違う人です。キリストが自分の感謝の気持ちを早く知らしたいために、その婦人に憑ったわけです。
それからこの婦人も去年あたり頭が悪いときに狐がずいぶん憑ったのです。狐も見えますし、私が浄霊したときも狐がいたのです。それで怖がっていたのです。今度なども狐がときどき憑っていたのです。ヨハネやキリストが憑ったことも、狐に瞞<だま>されると思って、恐れをなして私に知らせたのです。ところがその点も心得ておかなければならないことは、善い神様ほどかえって狐を使うのです。というのは、ふつうの人間に神様が憑ろうと思っても憑れないし、しゃべらせようと思ってもしゃべれないのです。それで狐に命令して狐にしゃべらせるのです。そうして本人のしゃべり具合によって、これなら大丈夫だというとき立派な神様がお憑りになることがあるのです。だから狐だからといって悪い意味に解釈して馬鹿にすることはできないです。祖霊などもよく狐を使うのです。狐は非常に人間に憑りやすくてしゃべりやすいのです。そのために祖霊が直接憑ってしゃべれないときは狐にやらせることがあります。だから、よしんば狐が憑っていても、どんな立派な人間か、神様か分からないから、そのつもりでこっちは、軽蔑しないでまじめにやったほうがよいです。よく狐のやつといって、それを押さえつけようとか、離そうとするのですが、それは悪いです。前にも私は書いたことがありますが、いばって出てきたり、いたずらすることがあります。また立派な神様を装ってきますが、そういうときは瞞されるのです。狐は「オレは何神様だ」とか言うから、「ああそうですか。御苦労様です」と言っておくのです。そうしているうちに必ず化けの皮をはぎます。狐を押さえつけようとしたりすると、かえって狐が怒っていろんないたずらをするのです。そうして正体を現わすのもかえって暇がかかります。そういう点なども、素直にするということは、なにごとにもよいということが分かります。だから「狐、こいつ瞞しやがるな」といって警戒心を起こす、それが神様のほうではいけないのです。瞞されているとかえって暴露して、狐のほうで頭をかいて謝るということになります。
昭和二十九年三月二十七日御講話(1)
外観だけは、足場が取れたのです。もはや見られたか、後で見られるか、ここにおられる方はとにかく全部今日見られるわけですが、私も足場が取れたからというので昨日行ってみました。自分で設計して自分で褒めるのは少しおかしいですが、私の気に入ったようにできたわけです。ああいう建物は実は外観が一番難しいのです。内部のほうはだれがやっても、自然にいやでもできてしまいますが、外観です。これがよくゆかなければならないので、外観ということが一番の問題なのです。というのは、あれだけの大きいものですと、やはりカンでゆくのです。模型は造ったようなものの、さて実際の大きさに表現するとなると、周囲のいろいろな物体のあり方とよくマッチしなければ、その建築はいけないわけです。それで間口と高さ、それも格好よく、少しも欠点のないようにできあがらなければいけないのです。それから特に難しいのは柱形です。人造石の柱の太さ、それから間の白い壁との幅の調和です。それが太すぎては頑固になりますし、細すぎると華奢<きゃしゃ>になるから、太からず細からずという、その割出しが厄介なのです。そうかといって、あれだけの大きい模型を造るわけにはゆかないから、カンでゆくよりしかたがないです。しかもあれだけの建築はいままでにないのです。私は二、三年前から毎月『国際建築』という雑誌をとってますが、世界中で新しくできた建築は必ず写真に出てますが、いままでのを見ても、今度できたようなああいう様式というのはぜんぜんないです。似たものすらないです。ただ、いま新しくできるのはみんなコルビュジェ式の、実用的の建築です。無論宗教的の建築というのはないです。そういうようなわけで、コルビュジェの単純な様式に対して、曲線は使わないで直線ばかりで荘厳の味を出す、荘厳の感覚を表現するということが、実はなかなか難しいのです。しかしそれに成功しなければおもしろくないのです。ですからとにかく宗教建築の革命です。西洋の宗教建築というと、キリスト教の先のトンガった鋭い様式ですし、それから日本のほうは、奈良朝以後のいろんな堂宇<どうう>、伽藍<がらん>ですが、これは一種の型ができているのです。そういうような具合です。ところが救世教は神道ではないからして宮造りにはゆきませんし、仏教ではないから寺院のような様式もできない、キリスト教ではないからして、ああいった教会堂式にもできないし、というわけです。そうして新しい破天荒な宗教ですから、建物も新しいいままでにないような形に造らなければならないという、そういう事情と合ってゆかなければならないのです。見れば分かるとおり、だいたいそれと合っていると、私は思われたのです。
それについてお祭りの前の日の二二日に、私の直接の仕事をしている男の若い妻君で、去年頭が少し変だったので、私がすっかり治してやったのです。しかしまだ少し残りがあって、頸のまわりに固まりがあるので、ときどき来いと言って、月に二、三回ぐらいやっているのです。そこで二二日の日に浄霊しょうとすると、ポロポロ涙をこぼして泣き出して、後から後から涙が出て、なかなか口がきけないのです。しばらくたってからふつうになったから聞いてみると、キリストなのです。それでキリストが長い間非常に苦しんでいたのが、その婦人に憑っていて浄霊してもらったので治ったのです。つまり磔<はりつけ>になったときの傷の悩みなのです。それがすっかり治ったので非常にありがたいと言って、つまり嬉し涙です。さらに、自分のもっとも懐かしい天の父様にお目にかかれたということは、これほど嬉しいことはないという、この二つのことの嬉し涙で、それが出たわけです。そうしてみると、あれほどの人でも、そういった一つの肉体の障害を治されなかったわけです。そういうわけですから、これから外国においてキリストも大活躍されると思います。これは信者の人はよく分かるが、キリスト教信者とか仏教信者が聞いたら、狐につままれたように思うだろうと思います。自分の拝んでいた目標が、そんなようなわけかと思うだろうと思います。しかしこれはすぐ分かるわけです。なぜと言えば、いままでのキリスト、釈迦、マホメットなどは、こうやって(手をかざして)病気を治すことができなかったですし、しかもこうやって病気を治す人を作れなかったのですから、そこにおいて、力において想像できるわけです。それで私は自分自身ああこう<ヽヽヽヽ>と、ドエライことは言いたくないですから言わないのですが、だんだん時節に応じてそういうことが証拠立てられ、分からないわけにはゆかなくなってくるのです。
昭和二十九年四月五日御講話(1)
この間のキリストが憑った婦人に、三月一三日から数回神懸りがあったのですが、これはなかなかおもしろいことと、割合正確なので、ほとんど違ったところはないのです。それを読ませます。
それで、キリストが言われたその言い方が、バイブルによく似てます。非常にくどいような、敬語などの表わし方とかです。キリストの一つの特長です。
それからもう一つおもしろいのは、「神ならぬ神」という言葉が入ってますが、これは実にうまく言っているのです。実際いままで神様といって拝んでいたのは、本当は神様でなかったのです。よい意味で言えば代理であるし、悪い意味で言えば誤っていたのです。間違えられたのです。そこでキリストが自分を神と言われるのは苦しいと言ってますが、これは本当にそうなのです。つまり、よく神様といっていろいろ崇<あが>められても、実際の値打ちよりも過ぎた待遇を受けると、かえって苦しいのです。これは人はあんまり知らないことです。しかし霊界は順序が正しいのですから、順序がちょっと違うとかえって苦しいのです。順序どおり、順序相当のお粗末にしてもらったほうが楽でよいわけです。ですから祖霊さんなども、あんまり分不相応な祀り万をすると、かえって苦しいので、そのためにお気づけがあるのです。ですから稲荷様とか天狗とかを立派にお祀りすると霊は苦しいので、かえって、気をつかせるために災いがあるのです。一生懸命に信仰して崇めているのに災いがあるということは、霊のほうで苦しいのです。こういうことはいままであんまり気がつかないのですが、やはり実際の価値と相応しないとそういうことがあるのだから、やっぱりその点注意する必要があります。だからいまキリストが言った、歌もあんまり自分を讃えすぎる歌は苦しいために、こういう歌詞で歌ってくれと、その歌詞も言いました。歌詞もなかなか良くできてます。これはいずれはキリスト教信者が歌うべきものになるでしょう。それからこの中でおもしろいのはエジプトの神ですが、これは少なくとも五千年以上前の神様です。こういう神様たちも救世教に対して分かったわけです。それで私があっちへ行ったらぜひ寄ってもらいたいと言うのですが、まだずっと先でしょう。それで、霊界は時間空間を超越しているから、いま霊界中が残らず分かったのです。あっちの龍神なども非常によく分かっているのです。それでこれから大いに働きたいと言うのです。おもしろいのは、この次に読みますが、龍神の中に壊す役があるのです。龍が、これから大いに壊す役をさせていただきますというのがあります。戦争やなにかで破壊したりするのは、みんな龍神がやっているのです。焼いたりいろいろするのもそうです。日本に対する広島、長崎に原子爆弾をやったのも、龍神がやっているのです。
昭和二十九年四月五日御講話(3)
それから四、五日前に、例のグリリ夫妻が、駐留軍の機関紙で『星条旗』紙というのがありますが、その主筆の米国人を連れてきたのです。なかなか頭の良い人です。そのときは美術の話よりも宗教の話のほうが多いくらいでしたが、実によく分かるのです。その際グリリ氏の話ですが(箱根美術館はその日に見てきたのですが)、あれだけの美術品を集めるにはふつうは五〇年かかると言うのです。それで「どのくらいかかって集めたか」と言うから、「終戦後ボツボツ集めたが、本当に集まったのは正味三年ぐらいだ」と言うと、「どうしても信じられない、どういうわけだか聞かせてもらいたい」と言うから、私は「わけはないのだ、奇蹟で集まったのだ」と言ったところが、どうも分からないのです。それで「理屈はとにかく、分からなくても驚いた」と言うのです。「実にあり得べからざることだ」と言って驚嘆してました。それで私が「終戦後三年ぐらいだが、最初から言えば七、八年はかかっている。その集める最初のときというのは金はほとんどなかった。それから金が集まったのだ」という、それが不思議でしようがないのです。それで私は説明してやったのです。金が集まったということは病気が治るためだ。医者から見放されたり、命がないというのが助かったその感謝のために金を献<あ>げる、そういう金が集まって美術品を買えたという話をしたのです。そうしたら阿部さんが側にいて、なにしろ病気を治すといったところで、つまり治す力を信者になった人に与えた、とにかく治す人を作った。キリストがやったように一人対一人ではない、幾人にでもそういう力を与えられると言ったので、このことも驚いたのです。なにしろジャーナリストですから、偉い人やまた昔からの偉い事績をいろいろ知っているが、そういう人たちはみんな、自分はキリストや釈迦というような意味で、自分の資格とか、そういうことを話したり、知らされたりしたけれども、教祖はキリストやなにかより上だ。キリストや釈迦をずっと下に見ている人は、まだ一人も会ったことはないし聞いたことはない、ということは実に驚いたということを言ってました。今度、駐留軍の司令官の夫人を連れてくるから、会ってもらいたいというようなことを言ってましたから、いずれ来るでしょう。そういうようで、まだいろいろ話がありますが、とにかく米国のほうに早く分かりそうな具合です。ですからこれは逆輸入で、かえっておもしろいと思います。それについて少し書いてみました。
昭和二十九年四月六日御講話(2)
それからこの間ちょっと話した、若い婦人でキリストが憑ったという話をしましたが、いままでのことを書いてこいと言ったものですから書いてきたので、それを読ませます。
これは別になにかのいたずらなどは入ってないので、本当です。この中にいろいろな意味がありますが、私が一番感じたのは、キリストの言うことがおそろしくくどく、ちょうどバイブル的に言われているのがおもしろいです。バイブルは弟子が書いたのですが、キリストのふだんのお説教やなにかが、こういったような言い方だとみえるのです。それで一番おもしろいのは「神ならぬ神」と言ってますが、これは非常におもしろい言い方と思います。実際、いままで神様と言っていたのは、本当は神様ではなかったのです。神様の代理とか弟子とか、そういう意味だったのです。ですから、キリストも「自分は神だ」とは言わなかったのです。「神の子だ」と言ったのです。そこであの時代に一部の者はキリストを救世主と言ったのです。いよいよ待望の救世主が現われたと言ったのです。ところが実は救世主ではないのです。そこでかえってそれを誤るといけないから十字架にかかったという意味もあるのです。そこでこれは人間でも神様でもそうですが、特に神様は厳正ですから、そのくらいにピッタリしないと苦しいのです。そこでいま読んだように、自分をあまりに讃えた歌は苦しい、だから歌う歌を自分が作って、そうして言わせたのです。なかなかよくできてます。これを今度のメシヤ会館に使おうと思ってます。曲はヘンデルの「救世主<メサイア>」ですが、歌詞はこれにしようかと思っているのです。ここにやっぱりたいへんな意味があるのです。私が作ってみんなが歌うということは嘘なのです。つまり私についている神様自身が作って、自分を讃えるということは理屈に外れているのです。そこで歌う人の一番偉い人が作って、そうしてみんなが歌うということが本当です。それが合理的です。キリストがこういうふうに歌ってくれと歌詞を作ったわけです。なかなか良くできてます。神様を讃える気持ちが実によく出てます。これを歌詞にしようと思ってます。まあ、私のほうで助かったわけです。御讃歌などもそうですが、あれはみんな私が作ったけれども、お蔭をいただいてありがたいというようなことを、私が作るということは本当ではないのです。まあ、信者さんの代わりになって作ったようなものですが、ああするよりしようがないからああ書いたのですが、本当から言うと、いま言ったとおりが本当なのです。
昭和二十九年四月六日御講話(3)
それから右に関することは、この間京都のある婦人が、やはりキリストやその他いろいろな人のことについて出たのと、同じようなのです。それが東京と京都と、こんなに離れて、別に話しあったこともない知らない人が、同じようにチャンと合うのですから、これらもおもしろいと思います。
神様でも仏様でも全体の霊が、一番に光を欲しがるのです。ですからいまも読んだとおり、マホメットなども非常に光に憧れているのです。またその後出た龍神やいろいろな神仏も、少しでも光に浴したい希望です。というのは、いままでの人間で神様の光というものを持った人はなかったのです。そこでヨハネなどが二七五〇年間地獄におられたわけです。それからキリストでさえも、そういった人でも、つまり救われなかったのです。というのは光なのです。光に浴することができなかったのです。ところが私が出て、霊界が明るくなり、それからまた光に浴することができたために救われたわけです。だから理屈は簡単なのです。つまり罪穢れにより……しかしああいう神様が罪穢れというのはおかしいですが、だいたいキリストが十字架にかかったというのも、前の世に非常に大きな罪をしたその犠牲になっての贖罪です。そこで十字架にかかったわけなのです。それだけではすっかり救われないのです。そこで長い間苦しんでいたのが、光に会うとその罪である曇りが溶け、消えるのです。それで救われるのです。だからとても光を憧れているのです。それともう一つは、今度罪を消されないと永遠に残るのです。それは軽い罪は昼間になると消えますが、しかし軽い罪の人はほとんどないので、みんな重い罪の人です。ちょうどあなた方が浄霊して、いくらでも毒があるようなもので、チッとやソッとのものではないのです。重い罪の人は永遠に消えないのです。いまのうちに早く光に浴して助からなければならないというので、あせって急いでいるわけです。というのは、霊界がドンドン昼間になりつつあるからです。だからそれを知った人はよいが、知らない人は実にかわいそうなものです。それでおもしろいのは、この次に読ませますが、いろいろな龍神の中で「自分は破壊の役だからして、それを一生懸命やる」というのです。これは破壊といったところで、悪ではないのです。つまり掃除です。掃除というのが破壊なのです。悪いものはブチ壊して片づけてしまうというわけです。大掃除のときに壊れかかった物や役に立たない物はブチ壊してハキダメに捨ててしまう、という役の龍神があるのです。自分は破壊の役の龍神だから、それを一生懸命にやるということがありますが、そうしてみると、大いに破壊の時も来るわけです。どういうふうにして破壊するかということは神秘です。いま大問題になっているのは水素爆弾ですが、これらにしてもたいへんな役をするのだろうと思います。あれくらいの物ができなければ、地球の掃除はできないでしょうから……。とにかくその大掃除に助かるには、光をいただいて、そうして穢れをなくさなければならないというわけですから、とにかく救世教信者になった人は、その幸福たるや、とてもたいへんなものなのです。それもだんだん分かってきます。だからキリストやマホメットなども救われたということは、発に述べた婦人を浄霊しているうちに、キリストやなにかが助かってしまったわけです。だからとにかく浄霊ということが、いかに偉大なものであるかということは、霊がみんな証明しているわけです。
昭和二十九年四月六日御講話(4)
なおそのときのいろいろな話の中に「美術館のあれだけの品物を集めるには、まず五〇年はかかるだろう」と言ってました。「実際にはどのくらいかかったか」と言うから、私は「戦後ボツボツ集め始めて、本当に集まった期間はまず三年だろう」と言ったところが、びっくりして「とても信じられない。それはどういうわけだ」と言うから、「どういうわけと言えば、奇蹟と言うよりしようがない。つまり神様がそうされたということより他に言いようがない」というように言ったのです。でも、はっきりは分からないのです。そこで私が言ったのは「とにかく集まるということは、やっぱり金が集まらなければ品物は集まらないのだ。それで金はどうして集まったかというと、医者に見放された病気や死ぬような病気が治る結果、そこで感謝のあまり金を献<あ>げるというために金が集まって、これだけの美術品が買えたのだ」と言ったのです。それで側から阿部さんが「なにしろいままでと違って、一人対一人ではなくて、明主様のお書きになったものを懐に入れると、だれでもそれで病気が治るという、そういうように信者がキリストと同じようなことができるのだから」と言ったので、これも驚いたのです。「自分はいままで世界の偉人のことを聞いたり、会ったり、歴史によっても、キリストや釈迦と同じだとか、あるいはそれに近いとか、そういうようなことを言ったという人のことを聞いているが、キリスト以上だというような、そういう大きなことを言う人はなかった、明主様が初めてだ。これは実に驚いた」と言うのです。だからそういう方に対して批評はできないと言うのです。なぜなれば「もし明主様のような人を批評するとしたら、自分が同格か、それ以上でなければ批評はできない。しかし人間のほうは下なのだから、ただ事実を認める以外、批評は不可能だ。批評するのは間違っている」と言ったのは、さすがに米国のジャーナリストだと思いました。実にありのままを正直に表現することが、日本人はあんまりそういうふうには言わないのです。だから実によいと思うのです。どうも日本人はそういう場合にも、なにか色をつけたがるのです。日本のジャーナリストの色たるや、すごい色をつけます。自分よりも下のように言うのです。ちゃかすのです。「岡田茂吉ナンテなんだ、救世教ナンテなんだ。あれは時局に便乗してうまく儲けた」というような、軽蔑したように見るのです。だから米国のジャーナリストと日本のジャーナリストとの見方は天と地の違いさですいっぽうは「それほどの人は批評はできない」と言い、いっばうは、批評どころではないので「オレより下だ、あれに瞞<だま>される奴はヨッポド間抜けだ」と言っている、そのエラがり方との違いさはたいへんなものです。だからそうなると、失礼ながら日本のジャーナリストは、やっぱり豚に真珠としか思われないです。日本の文化程度の低さというものは実に困ったものです。汚職問題が起こったり、いろいろな変な、社会がゴタゴタして、テンヤワンヤなのはあたりまえだと思います。