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昭和二七年七月一五日 『御教え集』十一号(2)

 それからこういうことをときどき聞くんですがね。私の本やなにかで裏表があると言うんですね。そういうことを聞くんですがね。一時そういうことの、ずいぶんはなはだしいことがあったです。裏表があるように見る人は邪神が憑っている。なぜというのは、いままでのお経にしろ、あらゆるものは夜のものだから、どうしてもたしかに裏表があったんです。夜の世界だったら、ここだけは月が照らすから見えるが、ここは見えない。ところが昼の世界ではここも見えるが、ここも見えるんです。だから裏表はないんですね。だから私の説いたものは、そんなことはないんです。そのまま信ずれば良いですね。それからいままでのことは根本が悪になっていたから、明からさまに言うことができないんです。そこで秘密があったんですね。あらゆるものがそうだったんですね。これは宗教も無論そうでしたね。なにしろうっかりすればキリストみたいや、日本のいろんな偉い坊さんでも島流しになったり、殺されようとしたりしたから、どうしても明からさまにできない。秘密にしたんですね。われわれだってそうですよ。終戦前はそうですよ。はっきり言えなかった。だから『明日の医術』でも曖昧極まるものがあったですが、あれははっきり書けなかったんです。ところがいまはそうではない。言論の自由ではっきり書けるから、今度の『結核信仰療法』ははっきり書いた。日本がそういう民主的になったということは、昼間の明るい時期に一歩近づいたわけですね。そういうわけですから、メシヤ教というのは昼の世界を造る。昼の世界になるについて出現した宗教です。ですからいままでの日本の宗教と違うんです。だから私の言う通りにやれば決して間違いない。裏があると思ったら間違いですね。だから素直になれ、というのはそういう意味ですね。素直にそのままやれば、すべてうまくいくんですね。

昭和二七年七月一五日 『御教え集』十一号 (3)

 これは肝腎なことですが、よく私の書いた文章だとか、私の言ったこともありますが、明主様のおっしゃることでも、やはり裏表があるから、そういうのも考えなければいけない、というようなことをときどき聞くんです。そういう人があったら、それは邪神が憑いていると思えばいいんです。私の言うことは、決して裏表がないんだからね。言ったまま、字に書いたまま、そのまま受け取れば良いんです。そういう裏表を書くようでは、どこまで信じて良いか分からなくなります。それはどういうわけかというと、終戦前は危ないですから、あの当時の官憲は偉い人が出るということを非常に怖がった。それですから、大本教でもひとのみちでも、やられましたけれども、その根本は生きた人間を拝むんです。生きた人間を拝むと天皇陛下より上ということになるんですね。そこで、ひとのみちなんかは、御木徳一という教祖の像をニッケルで作って……お宮の真ん中が天照大神で、向かって右が代々の天皇、左が祖先と、こういうふうな像を作って、天照大神の前に御木徳一氏の像を置いて、それを拝ませた。で、他のことはみんな官憲が作ったものでしょうね。根本はそれなんですよ。つまり不敬ですね。天照大神の前に自分の像を置いて拝ませるということは、ちょうど天皇と同じような意味になりますからね。またどうしてそんなことをしたものか、ちょっと気が知れないと思ったんですがね。しかしやはり信仰的に……神懸り的にそういうふうに信じたんでしょうね。それが元だったんです。大本教なんか、出口王仁三郎先生ですね。あの人が不敬も不敬、たいへんな不敬だったですね。十六の菊の御紋をつけた羽織を着て、服装なんか宮様でも着るような服装をして、言うことも、ワシが日本の本当の天皇の系統だと言う。というのは、あの人は有栖川の宮さんの落とし子だそうです。これは本当でしょう。有栖川の宮さんが京都に滞在なされたことがある。そのときに近侍として出た若い娘にお手がついたとの話です。そのとき生まれたのが出口王仁三郎先生だと言うのです。だからお母さんが有栖川の宮さんの胤をいただいたわけですね。それは、お母さんが危篤のときに出口先生が行って、いままで隠していたが、お前は本当はこういう事情のもとに生まれたのだ、という話をされた由です。その直後に私は見舞いに行って帰ってきて出口先生に直接聞いたんです。それからガラッと変わったんです。俺はそうしてみると本当の日本の天皇の系統だ、という気持ちになった。それで明治四〇年ごろに「南北朝正統論」というのがやかましく言われましたが、学者の説で南朝が正統だということになったんです。で、その当時の天皇の系統……終戦時の天皇の系統は北朝ですから、北朝は本当ではない。俺は南朝の正統だから、俺こそ日本の天皇になるべきものだ、という考えになっちゃったんでしょう。それから外出する……旅行なんかするにも、儀杖兵的に……駅なんかに着くと、あの時分青年隊というのがありましたが、それは全部軍人のような服装をして、出口王仁三郎先生はちゃんとサーベルかなにか持って……剣を持って……それは抜くと旗なんですが、剣の形にね。それでプラットホームに行くとみんな敬礼している。それで陛下のときのようにしている。外に出るとオートバイが二台先頭に立ってズーッと行くんです。それで後からお供の車が二、三台行く。これは私が大本教を脱退した一つの理由だったんです。危ない、これはやられると思ってね。そのとき諌言した人もそうとうあるんですがね。注意したんですが、その注意がおかしいんです。出口王仁三郎先生は聖師様とそのとき言っていたが、「聖師様はそういう思し召しはないんだが、側の者がそういうことをするのは怪しからん」というのと「聖師様がそうするのだ」というのと両方ありましたが、なにしろ危ないので、それが脱退した一つの理由です。それで官憲のほうは怪しからんと根こそぎ弾圧したんです。あとで行ってみると、よくも壊したものですがね。月宮殿というのがありましたが、みんな壊れて……戦災の跡みたいです。みんなダイナマイトで壊したんですから、見る影もないです。そんなような具合で、その当時の官憲は偉い人というのを非常に嫌った。だから私が病気を治したりすると、ありがたがって敬ったりしますが、それが危ないんです。だからできるだけそういうことのないように、小さく小さくやっていたんです。それでも大宮警察署に引っ張られて、そこで拷問にあって……これは肉体的拷問です。頭の毛を引っ張られたり、剣術の竹刀を持って二人の奴が、腰骨をくだくとまで言ってやられたり、それでぜんぜんありもしないことを書いて、判を捺せというんですからね。今度の静岡の取り調べもずいぶんひどかったが、それほどではなかったですね。ずいぶんひどかったが、いま言ったそういう恐ろしいことはなかったですね。それを警視庁にやると、岡田という奴は怪しからん、とブラックリストに載せられる。それで至る所警察の奴が放たれて……監視つきですね。ずいぶんあの当時は嫌な感じだったです。熱海に来たときは……東山荘に来たときですね。熱海の警察署から二人来て、塀の穴からのぞいて、今日は男が何人、女が何人、いつごろ帰ったと記録していたんですからね。だからときどき変な男が家のまわりを見にきたりするんで、だから気持ちが悪くてね。それで、天国会の中島さんがやっているとき警察が来て、病気が治るということは、つまり観音様で治るのではない。陛下の御稜威で治るんだ。陛下の御稜威で治るというのを言うのなら良いが、観音さんで治ると言ってはいかんと、そういうことがありましたね。そんなこんなだから、やり悪かったんですよ。その当時中田重治という人がやっていた、ホーリネスというキリスト教会があるんですが、そこなんか幹部の者が六人牢屋に入れられて、非常な拷問や虐待を受けて二人牢で死んだです。まあ殺されたようなものですね。中田重治という人も病気になって死にましたがね。なにが原因かというと、再臨派といって、キリストの再臨を信じた。キリストは黄金の国に再臨するといって……黄金の国とは日本で、日本に再臨しなければならないというので、再臨派はそうとういたですね。先に大阪の人で、位置は大阪に違いないが……大阪に再臨しているに違いないと、そうして探した人がありますがね。そんなわけでホーリネス教会の一人で、いったいキリストが再臨したら、天皇とキリストと較べてどっちが偉いんだ。こういうことを言ったんですがね。それは日本では天皇陛下は偉い方に違いないが、世界的に言えば、やはりキリストのほうが全人類を救われるんだから、まずキリストのほうが上とみなければならない。その一言でやられたんです。ただその時分に日本の軍部……日本の天皇陛下は世界を統一する……八紘一宇ですね。そこで天皇より偉いということになれば、それはたいへんなんです。それだけでとうとうつぶされましたがね。近ごろいくらか小さく始めているようですが、まあ気の毒なものですよ。中田重治という人はなかなか立派な人で、言うことは正しかったですね。むしろキリスト教のほうではホーリネスを注目していたですがね。ホーリネス教会という名前で、どこかにできたということを聞きましたがね。

そうでしょうね。やっぱりあれは、キリスト教も本当に研究すればそこにいくんですからね。そんなようなわけで……話が馬鹿に横道にいったんですが……本筋が分からなくなっちゃったが、そういうわけですから、そうそう裏表の話でした。そういうわけだから、はっきり言えなかったですね。ですから私の本なんかでも、最初の『明日の医術』なんかは、ずいぶんぼかして書いてありますから、たしかに裏表があったんです。日本でも最初……昔、仏教の最初の時代ですが、あの時代にはずいぶん神道やなにかも力があって、本当のことが言えないために大いに……裏表どころではない、裏ばかりの説き方をしていた。その時分の……真言密教ですね。あれがそうなんです。密教というのは、本当の奥義はお釈迦さんは七王の上にあるとしてある。七つの王様の上にあるというんですね。ですからその時分の天皇に対して、非常に不敬になるんです。天皇より上なんですからね。大本教にそういう研究家がいて、釈迦は七王の上にあるんだと言って、警察に呼び出されて、ずいぶんやられたようです。そうしてその弁明に非常に苦しんだようですが、これは宗教の……霊界のことだからというので、うまくごまかしたようですがね。そんなわけで、言葉や筆で知らせることができなかった。ですから覚りでいくんですからね。本当のことを言わないで、本当に近いようなことを言って覚らせるんです。教えをして、味わいですね。あれをさせるときには、試験のときには大僧正の前に行って、大僧正から「お前解ったか」というと、「解りました」。それで良いんですからね。それでちゃんと霊的に通じているわけですね。霊的に解ったんです、ですからあの時分は暗号といって符牒を作ったんですよ。ちょうどいまの共産主義のようなものでね。昨日かの新聞に出てましたが、共産党の暗号は野球に準らえてね。そういうことは日本の密教が初めですよ。その言葉をなにかでちょっと見ましたがね。共産党よりか上手くできてましたよ……もっと深かったですね。共産党のは、じきに分かりますからね。そんなようなわけで、だから仏教でも嘘は許されていたんです。ですから「嘘も方便」と言いますがね。ですから嘘は……結構じゃないが、それほどの罪にならないです。罪になるのは偽りです。嘘と偽りは違うんですよ。嘘というのは、先が信ずるも信じないも勝手です。鼻の先であしらう……嘘言ってやがらあ、とね。偽りというのは嘘の具体的効果ですね。人に嘘を言うのはそれほどでもない。場合によっては嘘を言っても良いんです。ですから嘘というのは空虚なものですね。ですから口偏に虚と書きますね。偽りというのは中に実体が入っているんですね。

昭和二七年七月一五日 『御教え集』十一号 (7)

 いつも言うことですが、メシヤ教が宗教的に活動を始めたのは二二年の八月ですから、三、四、五、六、七と、今年の八月で満五年になるわけです。この間も、フランスの大きな雑誌で、『パリ・マッチ』の主筆が来て、いろんなことを聞いたんです。いまどのくらいの信者があるかと言うので、まあ三〇万以上あるだろう、と。いつ始めたかと言うから、五年前。その始めたときはどのくらいの信者かと言うから、数百人くらいだろうと言うと、どうも信じられないようで、びっくりしたようでした。だからいかに発展の速やかだということは分かります。いったいその根本はなにかというと、病気が治ることです。こう(御浄霊)やって病気が治るということです。だから私の弟子はキリストくらいの奇蹟のできるのは、なんでもないと言うと、カトリックなんかが非常に根強い……キリストを信じている。するとキリストよりか以上とすると、いったいどういう神様か。キリスト以上の神様は、カトリックではないとしている。と言うから、私はキリストは天の父ということを言っているではないか。すなわち天の父という神様はキリストより上じゃないか。などと、そんな話がありました。それで美術館を見せてやりましたがね。なにか言うと、奇蹟だと言うんです。本当の値打ちは、外人ですから……それに、あんまり美術の研究が深くないようですから、解らないらしいですが、見た目が立派ですから、良いと思っているのでしょうが、こんなものがたくさん蒐まったということは奇蹟だと言っていました。

昭和二十七年八月一五日 『御教え集』一二号 (5)

 まだ仕上げができていないから、いくらか分かり悪いでしょうが、だいたいの意味は分かったと思います。これはだれでもですが、悪というのはなぜあるのかという疑問ですが、こういう質問をされたことがある。神は愛だ、慈悲だ、と。それなら、罪を裁く……罪を裁くといえば、人間が苦しむのですから、神様の慈悲だとしたら、最初から悪を作らないで、罰を与えたり苦しめたりしなければ良いではないか。それでは、神の慈悲ということが、どういうものか解らない。ということをときどき質問した人がありますが、それはまったくそうです。で、私は言ってやったのです。私は悪を作った神様でないから、どういうわけで作ったか分からない。その神様に聞いてみるよりしかたがない、と言って逃げたのです。そういうわけで悪はどういうわけであるかということが分からないのです。それを分からせるために最初は必要であった。要するに必要悪です。いままでは悪があったために物質文化が発達したのです。もし悪がなかったら、人間はまだまだ……智恵もこれほどにならず、もっとボーッとしたものであったでしょう。仮に、戦争が恐ろしいから、負けたらたいへんだといろいろ工夫してやる。そうするといっぽうのほうで、悪人は大いに世界を自由にしようとします。最近で言えば、ヒトラーのように……いろいろ工夫している。それから泥棒があるから、泥棒をつかまえようというわけで、警察と智恵較べをするのです。現に、いまの破壊活動防止法案は共産党のほうをなんとかしてやっつけよう。武器をどうして作ろうか、手に入れようかとする。この間ピストルを何百か押さえられましたが……。それから火炎瓶、竹ヤリ……これは原始的ですが、いろいろ工夫している。そうすると政府のほうでは、破防法を作ったりいろいろな巣窟を探ったりしてやっている。これは智恵較べです?結局悪人と善人の智恵較べがあらゆる面に出てくるのです。つまりそれによって人間はだんだん智恵が進むのです。それからいま読んだ通り、いろんな物質文化を発達させるには、神様があるということを……つまり有神諭では、神様がなんとかしてくれるという気になるから、どうも発達しないです。神様はないから、どうしても人間の力で工夫して行かなければならないということになるから、必要悪だったのです。ところがここまで来れば、必要悪でなくて不必要悪で、かえって障害物になる。そこで悪を打ち切りにして、これだけ進んだ物質文化を利用して地上天国を造る。その時期が来たのです。時期が来た以上その根本が分かつていなければならない。神様はそれを知らされたのです。そこでこういう文章を書いて世界中の人に知らせる。つまりこれは「天国の福音」というわけです。キリストが言ったように、「普く天国の福音は伝えられるべし、然る後末期至る」です。これから、先を説いていきますが、悪というものは打ち切りにする。どうしてなくする……その打ち切りの順序をこれから書くのです。そうして悪というものはなくなる。なくなるということは、刑罰でなくなすのでなく、悪はつまらないということになる。悪なんかやってもしようがない。善のほうが得だということになるのです。そういうことになるということは立派な理由があるのです。それはこれからだんだん説いていきますから分かるわけです。そういう話はこのくらいにしておいて……。結局、世界人類にその根本を分からせるということが、これからの私の仕事です。

昭和二十七年八月一五日 『御教え集』一二号 (7)

 私は始終邪神と闘っているのです。だから一日といえどもなんにもなくて、せいせいするという日はありません。それからそれへと問題が起ってくるのです。ですから始終闘いです。冷たい戦争と言いますが、まあ冷たい戦争です。武器を持たない戦争です。それを始終やっている。ですからいまでも裁判の三つや四つしているのですが、みんな悪との闘いです。邪神のほうでは、とにかく私が怖いので、あらん限りのことをやっているのです。ですから昔なら、キリストみたいに磔にならないまでも、遠島くらいはされたわけです。その点はいまはありがたい御時世になってます。とにかく昔のようなひどいことはしないですから、よほど楽に闘っていられるのです。宗教というものは、そういうふうな運命がつきまとっているものです。かえって力のある宗教ほど、よけいそういうことをされることがあるのです。お釈迦さんだけは割合に無事だったのですが、あの人は皇太子という位があったので、社会が非常に見方を違えたのだろうと思います。お釈迦さん以外としては、ほとんど迫害されない宗教家はいなかったです。だからしていままで悪い意味ばかりで考えてましたが、なにか……つまり抑えつけるとだんだん力を増すのです。無事でなんにもないと、さっばり力は増さないのです。やっぱり神様は良い具合に……考えてみるとちょうど一年置きになってます。今年なんかはごくわずかですが、でも一つの句切りになったような、多少の影響があるでしょう。あとは一昨年……二五年。それから一年間をおいて二三年です。そんなような具合に一年置きです。ですからギュウギュウ押す……押すとこっちははね返る。力が増すのです。そういうふうにギュウギュウやられていながら、教団のほうはドンドン発展して行く。今度は美術館もできたのですから、その神様のやり方は、なかなかおもしろいと思うのです。

昭和二十七年八月一五日 『御教え集』一二号 (9)

 そうして今度は薬毒の害を知って、さらに神様は司法制度……警察や裁判所、そういう悪をだんだん見せられた。豚箱やそういうこともさんざん経験しました。それから刑務所に行って、そういう方面の悪は実に良く分かった。しかし、こういう悪は私は割に少ないほうで、一番酷い目に遭ったのはキリストです。キリストなんかは、まるで……あの時代はそうなっていたか知らないが、ユダの讒言によっで、あのときの王様がキリストを陰謀の親方と思って、そうして磔にしたのです。日本の宗教家でもたくさんあります。ですから私が何百年前にこういうことをやれば、遠島は無論です。八丈島辺りに……。で、明治近くなってから、天理教の教祖は、警察や牢屋に入ったのが一六回です。懲役……そんなようなものが四回ありました。一番長かったのが、たしか半年だったと思う。その時分には信仰の自由はないし、めちゃくちゃです。いまではこれでよほど良いです。以前ですと、まだ罪の決まらないうちに美術館なんて、とてもそんなことはできない。そんなような具合で、神様はいろんな経験をさせられた。去年も刑務所に行ったときに、すぐ隣が、塀一つですが、懲役人が鍬を持って労役をやってましたが、懲役とはこんなものかと、神様はここまで見せられるのかと、つくづく見せられました。そんなような具合で、いろんな見学をさせられました。で、結局において悪です。その悪のうちで一番深刻なのは薬です。ところがどういうわけで薬というものができ、服ますようになったのかというと、この薬を服ませたのは観音様です。観音様が薬師如来になって薬を服むようにしたのです心というのは、人間が原始時代には非常に……獣みたいな人間だった。獣と闘うのですから獰猛だった。人間の進化の最初は、獣との闘いです。それを防禦するための闘いが最初で、これで人間はよほど智恵というものが出てきた。神様がこしらえられた最初の人間はボーッとしたものですが、だんだん智恵を磨くのです。そうして地上天国を造るのです。それにはどうしても悪を作って善と闘わすという手段をとったのです。獣との闘いがすんだら、今度は人間との闘いです。これは歴史にもありますが、野蛮人同士の闘いです。よく映画にもありますが、われわれも何千年何万年前はそうだったのです。それにはどうしても悪人というものを作らなければならない。善人だったらそうはしないから、文化も発達しないし智恵も発達しないのです。それからもう一つは、争闘させてある程度人間の智恵ができると、今度は人間を弱らせなければならない。弱らせると非常に智恵が発達するのです。というのは、人間が健康ですと、どこに行くのにも駈け出しても歩いても平気ですから、交通なんてあんまり関心を持たない。人間が弱ってくると、とてもやりきれない、楽をして遠くに行くというようになる。それからいま読んだように、戦争を作るというのは、どうしても野心家……どんなに悪いことをしても、どんなに大勢の人間を殺しても、そこを掌握するというような野心です。だからしてそれをこっちが防ぐために大いに智恵を振るって、そういう方法をとらなければならない。そこでいろいろな立派な発明もできるし、智恵もドンドン進むのです。その結果原子爆弾のような……それは発明としたら、いまでも一番すばらしいものです。ですからそういった英雄という者も必要なのです。で、人間がそれではあんまりかわいそうだし、それではかえって悪の世界になるから、それで宗教というものをこしらえた。それで、それをそれではいかんと因果応報の理由なんか説いて、ある程度悪の膨大を制限する……そういう人が宗教家というのです。ここまで人智が発達し、ここまでいろんな物質文化が発達すると、これ以上になると今度は危なくなる。人類の破壊になりますから、ここらで止めて、いままでの物質文化を良いほうに使う。そうして神様の最後の目的である理想世界……地上天国を造るという、その時期になったのです。そこでいままでのいろんな間違ったことを分からせ、そうしてそれをなくさなければならない。ですから病気は薬毒だ、間違っていると言ったところで、こうして(御浄霊)治す。それを見せなければ人間は信じませんから、こういう治す力を私に与えて、医学や薬の誤りを知らせるという意味で、それが根本の意味です。それからもう一つは、いま言う悪というものは、これからその説明をやるのですが。これは心に働いている悪というのは簡単です。これは信者は良く知ってますから、そう精しく説明する必要はないが、つまり人間に憑依している副守護神……動物霊がやるのだから、そこで悪を制限するには動物霊を弱める。動物霊を弱めるには霊の曇りの多い少ない……曇りが多ければ、動物霊は根本的の悪のものですから悪をさせる。動物霊をある程度抑えるには光です。光とは魂の光です。それには曇りを取らなければならない。だから悪の因というのは、結局霊の病気になる。つまり体の病気が毒血で、霊の病気が曇りです。ですから曇りを取るということになる。浄霊するということは、肉体の病気ばかりでなくて、霊の病気も一緒に取ってくれる。浄めるわけです。ですから浄霊という。霊が浄まると副守護神が弱りますから……副守護神ばかりでなく、臨時に憑く霊もありますから、憑いても弱るから、その霊は悪いことをしない。そういうことになる。そういうふうに人間が曇りが取れて動物霊の力が弱ると、悪人がなくなったということになる。そうするといまでもミロクの世になってしまう。それが根本です。理屈からいっても良く分かるのです。決して難しいことでもなんでもない。では、こんな簡単な理屈がどうして分からないかというと、その人の霊が曇っているからです。副守護神が邪魔するからです。これはお蔭話によく書いてあるが、よく解っているのだ。分かっていながら、どうしても信仰に入れないというのがよくある。分かっているというのは、その人の本霊が分かっている。ところが、分かっていて、なんだかんだささやくように思わせる。それが副守護神です。だからそういう点で、始終浄霊していると良く分かる。そういうような意味を、これからだんだんふつうの人にも分かるように書いていくつもりです。ですから結局肉体の病気と心の病気と両方治す。そうすると、心の病気を治すと、悪がなくなるから世の中が良くなるに決まっている。そう難しいことはない。分かってみれば簡単なのです。話はそのくらいにして。

『御教え集』七号、昭和二十七年三月二十日  (4)

 それで、今度アメリカからの通信によると、アメリカでは現在カトリック教ですね。あれが七割だそうですね。プロテスタントが三割……そんな割合だそうです。ただ、始末の良いことは、アメリカ人は全部信仰心があるそうです。日本人と違って、神がないと言う……そんなことはないそうですね。ただ、アメリカ人の神様はキリストですが、ただそんな点は非常に始末が良いそうです。無神論はないんです。全部有神論ですからね。ただ、カトリックが勢力を得ている。カトリックは非常に固いんです。カンカンです。で、カトリックは立派な病院を作っているんです。まあ、医学一点張りでやっているんです。いずれ、これを崩さなければならないんですが、たいへんな仕事です。けれども、時期が来れば、なんでもないんですよ、みんな頭を下げますからね。ただ、時期がそうとう間があります。それは神様のほうじゃ予定してますからね。そんなような状態で、宗教が病院を経営するということは、良いことと思っているんですね。それで、こんな論文を書いたんですが……先にも書いたことがありますが、とにかく宗教で病院をやるとすれば、俺のほうは、神の力じゃ病気が治らないということを表白しているので、本当から言うとおかしなものです。その宗教じゃ病気が治らないということを表白しているので、そこに気がつかないので、気がつかないということは、気をつかせる人がなかったんですね。気をつかせる人がなかったということは、宗教で病気を治すということがなかったからで、そういうことを言えるのはメシヤ教以外に、まあないと言っても良いですね。

昭和二十七年三月二十日 『御教え集』七号 (7)

 それから、これはどなたも経験があることですけれども、信仰を人に奨めたり、いろいろしても、なかなか解ってくれない。それから、支部の人やなにかでも、もっと発展しそうなものだが、発展しそうでしないという人なんか、よくあるんです。そこで急って、いろいろ……落ちついていないで、積極的にやりすぎるんですね。これは、肝腎なことを忘れるわけなんです。それは、昔からいろんな宗教やなにかは、ほとんど宗教の歴史と言えば、苦しみの歴史ですからね。特にキリスト教なんか、ひどいですがね。殉教者という言葉があるくらいでね。苦しみ抜いて、そこに植えつける、とね。キリスト教なんか、よくありますがね。アフリカの蕃地なんかに、命懸けで行って、そこに信仰を植えつける。まあ結構なことには違いないですがね。けれども、そのために非常な苦しみをして、結局犠牲になっちゃうんですね。そういうことが宗教を発展させるという上において、必要であるというような頭がだれにもあるんですよ。そこで、メシヤ教信者になっても、やはり苦心惨憺して、そうとうな苦しみをしなければならん。というために無理をするんですね。無理をするから、ますます苦しくなる。それで、あんがい発展していかないんです。その点なんだと言うと、いままでは夜の世界だったですから、夜の世界というのは、地獄の世界ですからね。そこで、信仰でも……つまり地獄的信仰ですね。この間の新聞にも出てましたが、立正佼成会なんてね。子供が死んだ、そうすると今度また、名前が悪いから、何年何月に死ぬということで、嚇されて、それが恐ろしいんで、親子心中したということになってますが、実際はどうだか、あれほどじゃないと思いますがね。と言うのは、当局の新宗教に対する疑いや、新聞のデマですね。ああいうことは、私などは経験してますから、あれを丸呑みにはできないんです。あれほどではないと思います。しかし、ぜんぜん形はないことはないと思いますね。それの起りというのは、ラジオの「社会の窓」ですかね。あれから始まったんですからね。けれども、あれはだいたい、日蓮宗から出ている霊友会から、また別れたんだそうですからね。ところが、ああいう信仰のやり方をみますと、やっぱり苦しみ信仰ですね。地獄的信仰のやり方ですね。それだから結局問題は起りやすいんです。メシヤ教で問題……まあ、私の問題ですがね。新聞やなにかの問題は二度ありましたがね。最初のは脱税問題ですね。その次のは贈賄問題ですね。脱税のときに、税金を軽くしようとして、そうして賄賂を使った。そういう疑いの問題です。ですから、宗教上の問題ではないんです。と言うのは、そういった地獄的のことはやらないですからね。そこでいま話したような、苦しんで発展させようということはいけないんです。メシヤ教では……それをいけないと言うのは、夜の世界の信仰ですからね。メシヤ教のほうは、昼の世界の信仰です。天国を造る宗教です。いままでの宗教で、天国を造ると言った宗教はないんです。来るということは言ったが、造るということは言わなかった。時期が早かった。ところが今度はいよいよ昼間になるんですから、今度は造るんですね。そうすると、天国を造るには、まず一番の元は御自分ですよ。自分が天国にならなければならない。けれども、自分の境遇や家庭を、急に天国にすることはできない。だから、その因である自分の心ですね。心を天国にする。そうすれば、一家が天国になり、一国が天国になり、世界が天国になるんですから、まずなんといっても心を天国にする。そうすると、いろいろなことで苦しむということは天国ではない。一番解りやすいことは、病人なら病人を浄霊に行く。そうすると非常に愉快な楽しい家と、なんだか気の向かないが、嫌々ながら行く家と両方ありますね。そうすると、なんだか気の向かないというのは地獄ですから、本当は避けられれば避けたほうが良いんです。楽しいというのは、良いし、そういう病人は治りが良いんです。発展するんです。けれども、全部が全部そうばかりはいかないですがね。それではまるで、わがまま坊ちゃんみたいでね。そうばかりもいかないが、原則として、そこに重点を置く。神様もそれが思し召しですがね。それが、天国的信仰と地獄的信仰です。そういうことは、神様にお任せすると良い。どこまでも人間の力でやろうということがいけない。ところがいままでいろんな……習慣やそういうような一つの思想を植えつけられてあるので、ともすればそういう心が起りやすい。で、自分で目的を立てて、それを実現しようとして骨を折るんですが……それは人間は目的なしでやることはできないから、良いですが……どこまでも進むから、そこで無理になる。無理になるから、そこで、逆結果になる。その点を良く心得ておけば、かえって楽にうまくいくんですね。私なんかは、最初はそうでなかったが、そのことが解ってから、そうやってますが、少しやってみて、思うようにいかないと、神様に任せておく。忘れるようにする。そうすると、忘れた時分にヒョッとうまくいく。ということがよくあるですね。信仰でも、地獄的信仰、天国的信仰と、こうあるんです。いままでの信仰は全部地獄的信仰です。で、メシヤ教で初めて天国的信仰という信仰が生まれたんですね。その点の区別ですね。それをよく知らなければならないですね。だから、こんな楽なことはないんです。楽にやるほど成績は良いんですからね。

昭和二十七年四月二十日 『御教え集』八号(1)

 これはなんでもそうです。いま、食えない奴ができる、税金で苦しむ、ということを言っても、まじめで働いていれば困ることはないんだから、貧乏で困るのはないんです。ただ、困るのは病気です。病気で金を使う。だから健康になれば、これは解決するんです。だから根本の、因を解決するんです。しかしいまは、根本というのは解決できないんです。根本をはっきり解っても、どうすることもできないですね。いまも言った通り、結核菌……それを殺すということのみ医学は研究しているんです。そこでいま、私は書いているように……「○ヽの文化」というのを書いているんですが、いままでは丸ですね。ポチ……これが元なんです。というのは、いままでの世界は○ヽの力が出なかった。つまり主神は……人間で言えば親父が出なかった。番頭なんです。だからいままでの神様は、神様の番頭なんです。キリストだって釈迦だって、番頭なんです。キリストは天の父と言う。天の父というのは主神ですからね。だから肝腎の中心は、みんな隠されている。丸だけしか見えないし、それだけしか解らなかった。で、メシヤ教というのは、主神の力ということがあるんです。ポチですね。だから、あらゆる人間の災い……その根本を解決していく力……その点がはっきり解ればだいたい解るんです。病気の原因も……結核菌の発生するということは、霊の曇りですから、霊の曇りを取れば、結核菌の因がないから、あと発生しない。というのは、あと発生しなければ、だんだんなくなっていくんです。人間に寿命があるように結核菌にも寿命があるんです。.だから、だんだんなくなっていくんです。古いやつはだんだん死んでいくんです。ところが後々できていくんです。子が生まれて、後々繁殖するように見えるので、医学は間違えたんです。で、菌を本当に殺すことができるような薬なら、人間も殺すんです。飲薬なら、胃に入りますね。胃から腸にいって、それがいろいろな消化機能の活動で、薬はほうぼうにいくですね。身体中にいくとすれば、その時分には、殺菌の力はなくなってます。また注射すると、血管をグルグルまわって心臓にいって、肺の黴菌の所までいくうちに、もう気が抜けちゃっているんです。本当に殺菌するなら……肺なら肺にやればそれは死にます。グルグルまわってもまだ殺菌する力があれば……毒の強いやつだと、それは人間の命がないです。だから、結核を殺すように、人間を殺すことになる。そうすれば徹底してますよ。それを一生懸命にやっているんですから、哀れなものですね。