あれはたしか昭和二十七年か二十八年の春ごろだと記憶しています。
当時、東京日本橋の本町に墨田組というのがあって、私はいつもそこの仕事を頼まれていました。たまたま、京都のえらいお茶の先生の紹介で碧雲荘の茶席をその墨田組が請負うことになり、直接の仕事を私と本田という 職人でやりました。
墨田組の木場で材料を刻み、それを熱海へ運んで、いよいよ建築にかかったのが、さて何日だったか忘れましたが、とにかく四月二十二日に建て前をしたことをおぼえています。盛大な建て前でした。
旦那さま(明主様)は、茶席の前の芝生に椅子を出させ、それに腰かけて、ずっと建て前を眺めていらっしゃいました。お座敷では、奥さま(二代様)が、やはり楽しそうに、ずっと見ていらっしゃいました。
けれど、盛大といいましても、ご幣を上げて厳粛におまつりをしただけで、別に木ヤリを唄うわけでもなく、 静かな気持のいい建て前でした。
そして、この建て前で私の仕事は全部終わったので、七月七日(七夕でおぼえているんです)に東京へ帰りましたが、茶席が全く完成したのは、旦那さまが箱根へ行かれてお留守のころです。旦那さまは箱根へお出かけになる時、『出来上がったらすぐ知らせよ』と鮎卦の方に申されたそうで、早速お電話しましたら、『ご苦労だった』と大変ご満足だったそうです。
いまでもよく思い出すのですが、お庭の夏みかんが熟れる時でした。旦那さまは箱根へいらっしゃる際に、その夏みかんをご自身でもいでお持ちになりました。私たち職人も、枝に残ったのを、ひとつ、ふたつちょうだいし、宿泊所へ帰って食べたり、また、落ち梅のころは、それを漬けておいて、東京へのみやげにしたこともありました。みんななつかしい追憶です。
私たちが仕事をしていると、旦那さまは一日に二度、午前十時ごろと午後――午後は何時ごろでしたか、とにかく二度、お庭を散歩なさりながら仕事を見に来られました。
いつも女の人が、ラジオをもって先導するのです。そのあとを旦那さまがラジオを聴きながら歩かれます。そのお聴きになるラジオはいつもニュースらしく、音楽などが流れて来たことは一度もありませんでした。それで、ラジオが聞こえてくると、〝あっ、旦那さまがいらっしゃるな″とすぐわかったものです。
そして、私をごらんになって、必ず『内山さん、ご苦労さま』とおっしゃるのでした。
旦那さまは、仕事については、たまに、『ここのところはどうなるのかね』とお尋ねになることはありましたが、そういう時、『そうか』とおっしゃるだけでした。指図めいたことは一度もおっしゃいませんでした。
とにかく、旦那さまというお方は、少しもえらぶるところがなく、全く感服いたしました。ある男が、「あそこ(碧雲荘)で、教祖と口がきける職人は、きみと植木屋だけだよ」と羨ましそうに言ったことを思い出します。