最高の神

 それから、近頃よく感じる事があるんですがね。私かちょっと、簡単に言った事でも、非常に重要な事があるんですよ。ですから、それを聞いた人はーー何時の間にか忘れちゃって、旨く行かないことがよくあるんです。よく聞いてみると、こういう点があるんですね。

 すなわち。宗教の教祖なんていうと、神憑り式です。神憑り式というよりか、神様に御伺いを立てるやり方ですね。神様に伺うと、こういう御示があった。そう言うと、大変有難く思うんですよ。そこで聞いた人は、これは神様のお指図だとか、戒めだとか言って、非常に強く印象されるんですね。

 ところが、私かチョイチョイと軽く言うから、そういう様なーー何んて言うか、有難味と言いますか、強い刺激を受けないですね。そういう事がよくあるんです。

 それからたまに、昔からこれは始終あるんですが、信者の中に神憑り的になって、神様はこうおっしゃるとか言って、それを一々信ずる人があるんです。ところがそういうのは、神様と言っても、下ーー下級の神様だから、いずれボロを出しちゃうんですが、一時迷わされちゃうんです。

 そこで、私の神様ーーというのは変ですが、はっきり言ってみると、今までの教祖とか、そういう人達と違うんですよ。違うという事は、位が違うんです。

 仮りにキリストにしろ、天の父の思召しによって、自分は生まれたとか、あるいはエホバがこう言われたとか、そういう事をよく言われてますね。それから天理教祖とか大本教祖にしろ、神様はこう仰言ったとか、ああおっしゃったとか、よく言うんです。そして、そういう神様を始終拝むんですよ。

 私は拝まないんです。というのは、私の腹に居られる神様はーー私か言ったりしたりする事は、神様が直接するんですから私か拝む事はない。それから、拝むという必要はないんです。

 私のお腹に居られる神様は、最高の神様ですから、拝まれるのは当り前ですが、こっちで拝む神様はないんです。みんな下の神様ですから。

 私の思うままにやって居れば、それが最高の神様がやられているんですから、そこで私は、神憑り的なーー私か御神体に向って礼拝しないというのは、そういう意昧なんです。これは今までの宗教には一つもないんです。

 それは、釈迦でも、キリストでも、マホメットでも、やはり神様を拝んで、お指図仰いだり、色々するんですが、私はそういう必要はないですから、それ丈に力もーーまあ字を書いても、その字が働くという様な訳でね。これは本当言うと、字を書く前に羽織、桍で祝詞を奏げて、神様にお願いして、そうしてやるものです。それは、今までどこの宗教の教祖にしろ、色々なーー御守等作る場合も、そうしているんです。

 私は、裸でアグラかいて書く事もあるしーーそれで良いんだから、別に面倒な事を言わなくてもね。そういう事を知って貰えば良いんですね。だから、他に神憑り等出ても、問題にならない訳ですね。

 こういう事は、今まで余り言いたくなかったから言わなかったんですが、そうでないと、他の神憑りを大層有り難く思いますから、それでお話しする訳です。

「御教え集第9号」 昭和27年4月5日

御教え集