昭和二十九年四月六日御講話(2)

 それからこの間ちょっと話した、若い婦人でキリストが憑ったという話をしましたが、いままでのことを書いてこいと言ったものですから書いてきたので、それを読ませます。

(「御報告」朗読)

 これは別になにかのいたずらなどは入ってないので、本当です。この中にいろいろな意味がありますが、私が一番感じたのは、キリストの言うことがおそろしくくどく、ちょうどバイブル的に言われているのがおもしろいです。バイブルは弟子が書いたのですが、キリストのふだんのお説教やなにかが、こういったような言い方だとみえるのです。それで一番おもしろいのは「神ならぬ神」と言ってますが、これは非常におもしろい言い方と思います。実際、いままで神様と言っていたのは、本当は神様ではなかったのです。神様の代理とか弟子とか、そういう意味だったのです。ですから、キリストも「自分は神だ」とは言わなかったのです。「神の子だ」と言ったのです。そこであの時代に一部の者はキリストを救世主と言ったのです。いよいよ待望の救世主が現われたと言ったのです。ところが実は救世主ではないのです。そこでかえってそれを誤るといけないから十字架にかかったという意味もあるのです。そこでこれは人間でも神様でもそうですが、特に神様は厳正ですから、そのくらいにピッタリしないと苦しいのです。そこでいま読んだように、自分をあまりに讃えた歌は苦しい、だから歌う歌を自分が作って、そうして言わせたのです。なかなかよくできてます。これを今度のメシヤ会館に使おうと思ってます。曲はヘンデルの「救世主<メサイア>」ですが、歌詞はこれにしようかと思っているのです。ここにやっぱりたいへんな意味があるのです。私が作ってみんなが歌うということは嘘なのです。つまり私についている神様自身が作って、自分を讃えるということは理屈に外れているのです。そこで歌う人の一番偉い人が作って、そうしてみんなが歌うということが本当です。それが合理的です。キリストがこういうふうに歌ってくれと歌詞を作ったわけです。なかなか良くできてます。神様を讃える気持ちが実によく出てます。これを歌詞にしようと思ってます。まあ、私のほうで助かったわけです。御讃歌などもそうですが、あれはみんな私が作ったけれども、お蔭をいただいてありがたいというようなことを、私が作るということは本当ではないのです。まあ、信者さんの代わりになって作ったようなものですが、ああするよりしようがないからああ書いたのですが、本当から言うと、いま言ったとおりが本当なのです。
(次節に続く)

「『御教え集』三十三号、岡田茂吉全集講話篇第十二巻p319~320」 昭和29年04月06日