昭和二十九年四月一日御講話(2)

〔 質問者 〕昨年五月御垂示(『地上天国』四八号)いただきましたS・Yでございますが、本人も感激して、反省し、その後、御神業に努力してまいりました。三ヵ月ほど前に兄さんのほうからお詫びして「たいへん申し訳ないことをした、いままでのことは許してくれ」と言ってきまして、その後、仲もよく、兄弟の努力の結果、当時より信者も倍になりました。ふたたび大光明如来様の御奉斎をお許しいただきたいと思います。

【 明主様 】よいです。もう、そうなれば……。そういうこともやっぱりわけがあるのです。そういうような段取りにしなければならないわけがあるのです。こういうことを知っておかなければならないです。これは大本教のお筆先に「今度は二度目の天の岩戸開きであるから」ということがあるのです。というのは、ずっと古い時代ですが、以前にもこれに似たようなことが世界にあったのです。それで今度は私が出てから、岩戸開き、要するに昼間の世界になるということは二度目になるわけです。すると、あらゆることが二度目になるのです。これは信者の人にもそういうことがよくあります。最初やったことがいけなくて、それからやり替えたりして、二度目の形をとるのです。私などは始終そうです。ほとんど例外はないと言ってよいくらいです。だからいまの御神体をそうするのも、二度目の型をとったわけでは<ママ>そういう人はたくさんあるに違いないです。二度目が本当だというわけです。だから今度できたメシヤ会館にしても、前には下のいまの美術館の所に造るつもりだったのですが、あのときの大風でくずれたのです。いま美術館の、上る道路を造っている所です。そういうようで、せっかく造ったのにくずれたので、それで上に変えたのです。そのときも「ああ、やはり二度目だな」と思ってやったのです。だからなにごとにもそういうことがあります。

 
〔 質問者 〕二度目になるのも決まっているわけでございますか。

【 明主様 】決まっているということもないが、二度目の型をとることが多いのです。

 
〔 質問者 〕型をするのはお許しがいただけるわけでございますか。

【 明主様 】型をすると言っても、人間のほうでするということは間違ってます。つまりそういうことがよくあるというわけです。一度目ですめば結構ですよ。

▽次節に続く▽