今年の初めに言ったとおり、霊界が非常に変わってきたのです。ということは、霊界におけるいろいろな偉い、各宗教の教祖とか、その弟子とか、そういったような人たちの霊がだんだん分かるに従って、霊界が明るくなってくるので、それとともに大きな世界の切り替えに……そういうことが分かってきて「これはこうしてはいられない、ここで大いに考え方を違え、救世教のために働かなければいけない」というわけで、信者の人の中でやっぱりそうとう因縁のある人に憑って、私にいろいろ訴えるのです。まあ救いを求めるのです。そういうことが数カ所に出てきたのです。これはみんな正確なのです。いろいろありますが、その中でもっとも興味のある重要な所だけを発表しようと思ってます。いま読ませますが、この他にもあります。それは時期の関係などでもう少し発表できませんが、それは非常におもしろいことです。いま読ませるのは割合短くてはっきりしていることなのです。それで、この神様の取り次ぎですが、それは若い女性で、だいたい二人です。その他の手伝いのような人もありましたが、これをしゃべった人は若い女性二人です。他に審神者<さにわしや>なども二、三いるのですが、それは必要ないが、これだけ読ませます。
(「御報告」朗読)
それから、ここに「明主」としてありますが、それは私の身代わりなのです。私の身代わりをするのが、霊界に幾人かいるのです。ですからここに「明主」としてあるのは、やはり私と同じと見てよいのです。
まだ他に、現界の偉い人たち、マレンコフだとかアイゼンハウアーだとか、そういう人たちのは、今度の『地上天国』に出すつもりです。そういうのは生きている人ですから生霊です。 こういうような具合で、霊界ではなかなかたいへんなのです。これについておもしろいことがあります。二、三日前に、信者の若い妻君で、近所にいるのですが、去年ちょっと精神病的になって、私が治してやって、もうすっかり治ったのです。それでまだ悪い所がちょっとあるのです。頸のまわりに固まりがあるので、ときどきやっているのです。それで二、三日前に来たときに、浄霊を始めると涙をポロポロこぼして泣き出したのです。たいてい分かってますが、聞いてみるとキリストだと言うのです。それで「いままでの苦痛をすっかり治していただいた。しかも天の父様にお目にかかれることになったので、嬉しくて嬉しくて、話ができない」と言うのです。なにしろ涙をポロポロこぼして話もできなくなったので、しばらく待っていたのです。そのうちに話ができるようになって話を聞いたのです。そうしてみると、磔<はりつけ>になったのが、いままですっかり治っていなかったのです。多少は治っていたのでしょうが、その苦しみで、そうとう長い間地獄にいたのです。それが私の浄霊によってすっかり治って、非常に嬉しいのです。ですからこれから大いに働かしていただきたいということをしきりに頼んでました。なお聞いてみるとこの間中、キリストが磔になった霊が、そこの家の部屋のほうぼうにときどき見えるのだそうです。そういうわけで、つまりキリストが救われたわけです。それによって、これから世界的に外国のほうへ大いに働くわけですから、非常に結構なわけです。また本人に聞いてみますと、なんでも一カ月か二カ月前にヨハネが憑ったそうです。それでやっぱりいろんな話があったそうですが、いずれ聞いてみようと思ってます。そのときは急いだものですからそれっきりで止<よ>しましたが、とにかくいま読んだ神懸りの人とはぜんぜん違うのですから、それがかえっておもしろいです。それでキリストが憑った人は、クリスチャンでもなんでもないのです。いままで別に信仰がなくて、救世教には何年か前に信者になったわけです。それから、最近伊弉冊尊<いざなみのみこと>も憑ったそうですが、それもいずれ詳しく聞いてみようと思ってます。そういうようなわけで、霊界がいかに変わってきたかが分かるのです。いま読んだように、マホメットとか釈迦、そういう霊がいよいよこれから、つまり救世教のために働くわけです。
天理教祖のは昭和二五年に静岡の留置所でのことで、これはあのとき話したつもりですが、あのときに呼んで教祖にいろいろ話して、助けるからという約束をしたので、救っていただいたその礼を述べたわけです。ですから、だんだん発展が著しくなるというわけです。結局、これは宗教に限らずなんでも霊です。霊界において霊が働かなければ駄目なのです。ところがそれを知らないと、体だけと思ってやるからして、人間的にいくら骨を折っても、うまくゆかないわけです。
そういうようなわけで、もう一つの霊的な現われは、私が美術品を蒐<あつ>めてますが、これが実に始終不思議があるのです。最近になって特に不思議なことが多くなってきました。というのは、私が欲しいと思うと必ず入ってくるのです。とても手に入らないような物が入ってくるのです。それはやはり霊界で、それを作った作者とか、あるいはそれを蔵<しま>っていたり、愛玩していた昔の大名とか、いろんな富豪とか、そういう人たちが手柄をしたいために、ほとんど競争で私のほうに美術品を入れようとしているのです。というのは、一つでも御用になると、そうすると霊界において地位が上がるのです。まず、地獄にいた霊でも、段が一遍に上がりますから、たいていなのは八衢<やちまた>ぐらいには行くわけです。それから八衢にいたものは天国の最低の所に上がるのです。そういうようですから一生懸命に御用をするわけです。さもなければわずかな間にそんなに集まるわけがないのです。来月の九日から三越で「肉筆浮世絵名作展」があります。これはこの間から知らしておきましたが、肉筆展というのは初めてなのです。いままでは浮世絵というと版画ばかりだったのですが、今度初めて肉筆ばかり出すわけです。これが一年たつかたたないうちで、正味半年ぐらいでしょうが、それで何十幅と集まったのですから、これも実に奇蹟です。それでいま、浮世絵は箱根美術館が一番だということに、日本中で定評になってますが、これらもやはり霊が骨折ったものに違いないです。それで霊が私のほうに入れようとする場合に、結局金がいるようにならなければ売らないからして、そこでよろしく金に困るようにするわけです。子孫の人には実に気の毒ですが、しかしその代わり、その手柄によっていずれは非常に結構なお蔭をいただくわけです。私が欲しいと思ったのは、いつかしら入ってくるのです。しかも非常に安く入ってくるのです。ですからいつも道具屋が驚いているのです。「どうしてそんな値段で入りましたか」と言うから、「それがあたりまえなのだ、君たちがふだん高いのだ」と言うのです。つい二、三日前、御舟<ぎょしゅう>の最高の物が入りました。いま松坂屋で御舟の展覧会があって、一〇〇幅ぐらい出てますが、その中にもないすばらしい物です。私はあんまり良くて安いので、目をこするくらいです。そういうようなわけで、いかに霊界でそういった霊が働いているかということがよく分かります。いつか『栄光』に、歌麿の霊が喜んでいるということがありましたが、そういうような具合なものです。ですから懐手<ふところで>していて非常に良い物が安く入ってくるのです。これが如意宝珠<にょいほうしゅ>の力です。「凡て意の如くなる」というわけです。
それから熱海の地上天国はみなさん見られたでしょうが、秋までにできて落成式をやる予定だったのです。ところが神様のほうではそれを押さえている点があるのです。それで分かったのは、来年の三月に落成式でなければいけないというのです。なるほど、二九年という数字が一番悪いのです。三〇年の三月三日、すなわち三、三、三という、そういう数字でなければいけないということなのです。というのは、ミロクというのは、いままでは五六七ですが、五六七は火水土で、つまり根本的の意味です。ところがこれから現界にミロクの世を造るのですが、そうすると現界はすべて三の数字で支配されるわけです。三、六、九です。ですからこれからは三六九の数字のミロクという意味になるわけです。これは前にも話しましたが、いっさいは三階級で、それが霊体で、つまり六になり、霊界、現界、それが六になり、それから三位一体になって九になる。ですから三、六、九は、やっぱり五が三、六が三、七が三という意味になります。ですから昔から言う、めでたいときの「三、三、九度」というのは、そういう意味があるわけです。そういうわけで三〇年三月三日が開館式になるわけです。それではっきり分かったのです。最初会館と展望台がそれまでにできるわけで、その次に美術館になるわけです。美術館もたびたび言うとおり、世界的……ではなくて世界一のものを造るつもりです。それから、いま外側だけができた会館の様式も、ずいぶん新しい様式です。私は毎月『国際建築』という雑誌をとってますが、これは世界の新しい建築を紹介してあるのですが、それを見ても、今度のメシヤ会館のようなああいう様式はぜんぜんないです。あれに似たものもないです。ですからあれだけでも、おそらく世界の建築界における一つの新しい様式というように、一つの話題になると思ってます。それで、ああいう建築で一番難しいのは外郭なのです。中身のほうはあたりまえなのです。外郭の一番難しいのは、高さと横の幅です。この形です。これが寸分の隙がないようにやらなければならないのです。高すぎてもいけないし、伸びすぎてもいけないのです。それに縦の棒、柱形というのですが、その色と寸法、柱の太さと深さ、脇の壁、そういう釣り合いがとれ、そうして全体的調和です。それで、大きいものですから、模型は造りましたが、実際となるとなかなか違います。本当はあれだけの大きさの模型を造らなければ、思うようにはゆかないわけです。映画のセットならよいが、それにしてもたいへんな金がかかるから、とても不可能です。それがこの間見ると私の思ったとおりの感覚です。それで私は非常に満足してます。なにしろ私のは参考もなにもなくて、ただ目分量と勘でゆくのですから、ふつう専門家が聞いても驚くでしょうが、これは神様がやるのだから別になんでもないのです。そういうようなわけで、あの会館でもそうとう注目すべき問題作になるわけです。ところが今度の美術館は、これはあれとはまたぜんぜん違った、もっとずっと美術的の感覚を出そうと思ってます。それで日本風と支那風と西洋風と、この三つの特長を取り入れたような様式にするつもりです。無論色と形、そういう点においても、あんまり新しすぎては軽薄になりますし、古すぎてはやっぱり現代人の感覚にピッタリ合いませんから、新しくして古い落ちついた点も取り入れなければならないというわけなのです。これはいくら話したところで、実際のできあがりを見なければ分かりません。これは大いに自信があるつもりですから、楽しみにしてもらいたいと思います。「細工は流々、仕上げをごろうじろ」というわけです。
それから自然栽培も予期以上の成績で、新聞も非常によく売れてます。いままでに一三〇万を突破したでしょう。ところが最近農林省の役人の中堅どころでしょうが、前に『栄光』に出たYという人が主になって作ったようですが、「自然農法研究会」というのです。会員が十数人だそうですから、そうとう有力な活動ができると思います。その「趣意書」を見たところが、非常によくできてますから、読ませます。
(御論文「自然農法の一大朗報」「農林省自然農法研究会趣意書」朗読)〔「著述篇」補巻三、七四五ー七四七頁〕
そういうようなわけで、非常に力強い後援者が現われたようなものです。これは信者でない第三者であるだけに、しかも農業の一番の実権を握っている人たちの計画ですから、非常によいと思います。このことの影響が大きなものがあると思います。つまり農業者が新聞を読んだり話を聞いたりして「なるほど」とは思っても、なにしろいままでの考えとはあまりに違うので、信ずるのに容易でなく、骨が折れるというに対して、農林省の役人にこれだけの固まりができるとすれば、「これはたしかに効果があるものに違いない、信頼のおけるものに違いない」という、そういった印象を与えますから、これが非常に大きなものだと思います。だからしてこのことが一つの宣伝の大きな武器となるわけです。だから非常に結構だと思ってます。そういうわけですから、無論今年の秋の成績はすばらしいことと思いますが、ナンダカンダと全国的に大いに自然農法化するのが、だんだん顕著になってくるわけです。
ですから「救世教はふつうの宗教ではない、たいへんなものだ。救世教のやっていること、言っていることより他に、本当に国家社会を良くする道はない」というところまで分からなければならないし、それが一歩一歩事実において前進しているわけです。なにしろ救世教というものは、いままでの宗教や科学、そういうものと非常に違っているのです。違っているということは、すばらしいものだということだからして、むしろいままでのいろんなことよりか反対が多いのですから、それを短期間に分からして、つまり頭脳の逆転と言いますか、頭脳革命をするのですから、とてもたいへんなものです。けれどもそれをやるのが最高の神様ですから、とうてい人間の考えや想像では分からないわけです。だから地上天国にしろ、わずかの間にあんな立派なものができてしまうということにしろ、今後もう数年のうちに世界的の注目すべき文化事業です。だからアメリカの二、三の新聞記者などはできあがるのを非常に待っていて、できたら大々的に世界的に宣伝すると意気込んでいるわけです。これは別にこっちで頼んだわけではないので、先様のほうでそういった力コブを入れてくるのですから、非常におもしろいと思います。外務大臣などにもずいぶん話をしているらしいのですが、本当に知れだしたらたいへんなわけです。それで前にも言ったとおり、熱海の地上天国ができるということは、世界的の地上天国のごく根本の型なのですから、これができると霊界ではたいへんなことになるのです。ですから神様のほうでも、チャンとそういった深い計画のもとにやられているのですからして、つまり開館が延びるということも、そういう世界中のいろいろな準備、そういう関係もあるわけです。それで、さっき読んだように、キリスト、釈迦、マホメットなどという、ああいう、とにかく人間的にいっても偉い人たちが働くということは、いかに大きな働きができるかということはよく分かるのです。ですからたとえてみれば、キリスト教などの、二千年も前から根を張ったものが一挙に引っ繰り返るということなども、人間ではとうてい想像もつかないのですが、それを開いたキリスト自身が働けばなんでもないのです。そういうようなわけで、いよいよわれわれの仕事というものが、世界の本舞台に上がるときが目前に迫りつつあるわけです。
(御講話おわり)