昭和二十九年三月七日御講話(1)

 今度「救世教の聖書」というようなものを編集することになって、いままでに私の書いた中から選<よ>り出して編集しているのですが、それについて、「序文」を書いてくれというので書いたのです。だいたいこれはみんな分かっていることですが、とにかく救世教の特長というもの、ふつうの宗教とは違うというようなことに力点をおいて書いたのです。

 (御論文「救世教とは何ぞや 序文」朗読)〔「著述篇」第一二巻二四五ー二四八頁〕

 「農業特集号」はあんがいよく売れるそうで、いままでに一〇〇万部以上売れたようです。一〇〇万の予定でしたが、一〇〇万でも全部売れればたいしたものだと思っていましたが、ふつう一戸に五人の人間としても、かなり行きわたるだろうと思ってます。それで、地方新聞などにはときどき自然栽培について出てますが、どうも大都会の新聞には少しも出てないのです。しかもラジオなどはいま農業講座を続いて毎晩やってますが、しかも肥料については少しも触れないで、他のことばかり言ってます。どうも、想像してみると、言わなければならない、書かなければならないわけのものを我慢しているのですから、よほどつらいだろうと思います。歯ぎしりをしているのではないかと思ってます。もっともこれについては、肥料会社の方面からそうとう手がまわっているのではないかと思うのです。これは国家とか人民とか、ということよりも、自分のメシを食うために影響するということが一番恐ろしいのです。ですから言うことを聞くのも無理はないのです。そのくらい救世教というものを恐れているのです。ということは、私のほうで書くものが手厳しいのですから……これはみんな知っているとおり、ずいぶん思いきって書いてます。本当から言えば大いにこちらを攻撃するとか、とにかく止<や>めさせようとかいう手段をとらなければならないわけです。それからまたもしか間違っていたり、社会のためにいけないものなら、新聞社でも大いに叩<たた>かなければならないのです。ところがそうしないところに先方に弱みがあるのです。ということは、こっちが言うこと……それどころではない、実例をたくさんあげてありますから、拳骨<げんこつ>の振りようがないわけです。しかしそういうことは、ちょうど汚職問題を隠すようなもので、どうしても知れなければならないので、間違っていることは神様が許さないです。ただ時の問題で、いずれは農村に自然栽培者が多くなってしまうと、大新聞なども黙っておられなくなります。書かないわけにはゆかなくなります。第一そうなると手遅れです。なぜいままで知らせなかったか、地方新聞はあんなに書いているのに、大都会の新聞はなぜ書かなかったのかと非難をあびるでしょう。ところがそこまでは気がつかないで、「無肥料で作物を作るなんて、いつかは駄目になるだろう、一時的なものだろう」というような解釈をしているのです。いままでのそういったものは、ほとんどそうだったです。そこで自分で慰めているのでしょうが、しかしいずれはあわてて、苦しがる時期が来るに違いないです。そういうようなわけで、先方はどう困ろうと苦しもうと、こっちは別に関係はないのです。こっちは大衆を救い、日本の国全体を救うのですから、先がどんなに歎こうと、あえて痛痒を感じないのですが、話をすればそういうようなものです。そうなると肥料会社のほうの事業がたいへんなことになると思うのです。硫安<りゅうあん>などはまるで売れなくなります。しかしそのために電力が大いに助かることになってますから、国家として非常に結構なのです。

 肥料はそういう具合としても、その次は薬です。この薬がたいへんないけないものだということが社会の世論になるわけですが、これは肥料のようなわけに簡単にはゆきませんが、しかしいずれはそうなるに決まってます。神様がそういう機会を与えます。今度の「特集号」が非常に売れるということは、去年のあれだけの凶作のために、農村の空気がまるで違ってますから、そこで腹の減っているところに、ごちそうをやるようなもので、飛びつくわけです。これは神様がそういう時期を作られるわけです。ですからいずれ薬のほうも、神様はチャンとそういう時期を作られるに違いないですから、そうなって世の中は本当に良くなるわけです。それで薬について書いてみましたが、薬というものはぜんぜん科学性はないのです。つまり迷信です。その、薬に科学性がないということについて書いてみました。

 (御論文「薬剤は科学?」朗読)〔「著述篇」第一二巻二五三ー二五六頁〕

 これは、科学ではないということをザッと説明したのですが、これを大きくみると、人間のいっさいの悩み、たとえてみれば犯罪ですが、犯罪の原因も薬毒なのです。今度の汚職問題で偉い人がみんな引っかかって苦しんでますが、これの因<もと>の因は薬毒なのです。つまり、薬毒が溜まると霊が曇ります。霊が曇ると邪霊(動物霊)が活躍ができますから、そこで内証で変な金を手に入れたりすることになります。その薬毒のために霊が曇るから動物霊が活躍するのですが、そうするとまず大いに芸者買いしたり、酒を飲んだりマージャンをやったり、いろんなことをする、それはみんな動物霊の指図と言い得ます。そうしてそれには金がいる、そうしてうまくやればよいというので、いろいろなことをやるのです。そうすると結局において薬が罪人を作っているわけです。犯罪者を生んでいるわけなのだから、薬毒というのは病気ばかりではないのです。いわば、肉体的病気ばかりでなく、精神的病気も作っているわけです。あらゆる悪の面、人間の悩み苦しむその原因は全部薬なのです。人類から薬というものを抜けば、地上天国もミロクの世もできるのです。とにかく救世教というのは、世の中から薬をなくするというのが根本の仕事です。そんな恐ろしいものをさかんに売っており、また奨励しているというのだから、実に世の中は間違いもはなはだしいのです。いま新聞広告で一番よく出ているのは売薬の広告です。ラジオの民間放送というと、薬屋の宣伝が一番です。ほとんど薬で、その他の商品などはわずかです。それほど恐ろしい物をこれほど大騒ぎをやって奨励して、飲ませようとしているのだから、いかに世の中が間違っているかということがよく分かります。いままで人間に「薬は良い」という観念がしみ込んでいるのですが、これが「あべこべなものだ」ということを分からせるのがたいへんです。それで浄霊を受けて病気が治った人は分かりますが、それを急に早く分からせようとしても、なかなか無理なので、そこでやはり神様はチャンと、一遍に分かるような仕組みをされてあるのですから、それも時期です。とにかく人類のいっさいの不幸は薬が因と思っていればよいです。それで薬がなくなったらどうなるかというと、人間の寿命は必ず一〇〇歳は生きるのです。人間の寿命が一〇〇以上は生きるということになったら、こんな結構なありがたいことはないと思います。救世教に入れば一〇〇歳以上は生きるということが分かったら、みんな救世教信者になります。「そんな馬鹿なことがあるものか、人を馬鹿にしてやがる、宗教宣伝のためにうまいことを言ってやがる」と、最初は思いますが、「とにかく入ってみろ」というのも非常によいと思います。

 それから地上天国もだいぶ外人のほうに知れてきて、今度箱根美術館が開館になったら、外人の観客がそうとう増えるだろうと思ってます。とにかく外人の間では、日本に来て日本の美術を見ようと思っても、見る所がない、見せる所がないというのです。美術館はほうぼうにできたようだが、みんな西洋の美術、油絵です。そんな物は先方が本元で、わざわざ日本に来て見る必要はないので、日本の美術を見たいというのです。ところがそういう所がないのです。本当に日本の美術を見せるのは箱根美術館よりないというのです。あとはお寺に行って仏教美術を見るとか、博物館に行って見るのですが、博物館は一部です。なにしろ美術館ではないので博物館ですから、古い、考古学的の物とか歴史的の物です。そこで博物館で一番の良いものは仏教美術で、仏像に一番立派なものがあります。私なども行って仏像を見るぐらいなものです。他にもありますが、年中同じ物ですから飽きてしまいます。私が三〇代の若いころから見た物がいまもって出ているのですから、なにも見る物がないのです。それから年に一度ずつ日展ぐらいなものを開催しますが、そこでも、日本画を見ようと思えば、ほとんど油絵式になってますし、美術工芸というと、薄ッベラな歯の浮くような物で、本当に楽しめるような物はないです。だから美術館として本当に美術らしい物を見ようと思っても、おそらくないです。そこで、私が自分が見る美術館をこしらえようとしても、やっぱり箱根美術館のようなものをこしらえなければならないと思っているのですから、そこで美術という、そういった面からみても、救世教でやっていることは、やはり自然栽培や薬毒の説と同じような、世界に一つというようなものになるわけです。おまけに今度、熱海に美術館ができたら、これは箱根よりもいっそう充実したものですから、たいへんなことになるだろうと思ってます。そういうようなわけで、神様はあらゆる面の救いですから、美術館も地上天国にしろ、その一つの大きな役目をされるわけです。そういうようなわけで、いろいろな仕事が本当に社会的世界的に知れるのは、いよいよこれからという、ちょうど山ならいま麓<ふもと>に来たわけです。大いにやり甲斐が、だんだん大きくなってきたわけです。

 いつかも話した、三越で来月やる浮世絵展覧会ですが、これは「肉筆浮世絵名作展」という名称で、箱根美術館主催、毎日新聞社、文化財保護委員会が後援ということになって、それで始めるわけですが、来月の九日からという話で、一〇日ぐらいやるでしょう。いままで浮世絵展というとほとんど版画でしたが、今度の肉筆展というのは初めてです。すばらしい人気を呼ぶだろうと思ってます。いずれ大阪、九州というようなふうにやる計画らしいです。宣伝するつもりでなくても、結局救世教の宣伝にもなるわけです。神様があの手この手で知らされるわけです。浮世絵の肉筆なども、私がなぜそれをやったかというと、浮世絵というと、ほとんど版画だものだから、版画は非常に値段が高くなってます。版画で一番値段が高いのは一枚四〇万円から五〇万円です。歌麿の版画には最盛期というのがあるのだそうで、あんまり若すぎても年をとりすぎたのもいけないので、四十ガラミの物が脂がのっていて良いそうです。それなら一枚四〇万から五〇万だそうで、それから写楽。春信のが一番高いですが、春信のは箱根美術館に少し出しました。いまの、歌麿、写楽、春信の三人が世界的です。ところが肉筆のほうは安くて、半分以下です。だから実に馬鹿げたものと思います。版画というと、たいてい一種類二〇〇枚ぐらい刷るのがふつうですが、版の物が高くて、一枚一枚画いた物のほうが安いというのですから、こんな理屈に合わないことはないです。だからよろしいというわけで肉筆ばかり買ったのです。非常に安くて良い物が入ったのです。そのために今度は非常に値が上がったのです。そして品物もなくなってしまったわけです。私が商人ならずいぶん金儲けはうまいわけです。そういうようなわけで、いま肉筆というのはほとんどないのです。主な物はほとんど私のほうに集まってしまったのです。そこで今度の展覧会も肉筆展というわけです。それに肉筆のほうが絵も大きいし見応<みごた>えがあります。力もあります。割合にわずかの間に安く集まってしまったのです。浮世絵は日本で一番ということは、博物館でも言ってます。そういうようで、いまのは浮世絵ですが、他の物も非常に高くなってます。私はびっくりしているのです。土地のようなものでも、買った所はみんな高くなってしまうのです。というのは、なんと言いますか、すべて一番良いものを選ぶからです。美術品でも、一級品ばかりしか手を出しません。それで一級品は何倍と上がりますが、二級品、三級品になるとそうは上がらないので、倍か三倍です。時間が来ましたからこのくらいにしておきます。
(御講話おわり)

「『御教え集』三十二号、岡田茂吉全集講話篇第十二巻p17」 昭和29年03月07日