昭和二十九年三月一日御講話(8)

 〔 質問者 〕ただいまの、浄霊によって不純水素が焼きつくされるということに関しまして、以前(『御垂示録』二〇号〔第九巻八五頁四行目―九〇頁二行目参照〕)にお伺い申し上げましたときは分かったようでございましたが、いま理解していることが、前のときのと変わっているのでございます。あのときには「毒素は鱗雲のようなもので、少しはよいがたくさんあってはいけない」というお言葉でございました。今度は体的になって、漿液……それから赤血球が古くなって白血球になると、

【 明主様 】それは知りません。それでは医学的の説明になります。

 
〔 質問者 〕赤いものが古くなって白くなるということで、それからもう一つは毒素は血膿になると、

【 明主様 】それはそれでよいです。

〔 質問者 〕奨液は血液の水分であると、

【 明主様 】奨液はいっさいの水分です。ですから血液の水分にもなります。

 
〔 質問者 〕そうするとまた、奨液の中に流れている膿というものが、神経を使う所に固まる。それが毒素ということになり、血の中に凝結して残っている部分と、それが奨液に混る部分と、

【 明主様 】それは、血のほうも膿のほうも、両方とも漿液になるのです。ただ、血液が古くなると膿になるのです。しかし血液のときも、古くなったときも、やっぱり奨液……です。奨液から離れることはないです。

 
〔 質問者 〕血管内の血液も奨液に、

【 明主様 】奨液になります。血管があろうとなかろうと、すべて漿液です。水分は人間の七割としてあるでしょう。七割だけ水分になっているわけです。人間の身体というのは水分と思えばよいです。水に属しているものです。そうして霊は火に属しているものです。だから人間は火と水に属しているのです。霊体と分ければ、火と水と分けてよいのです。

▽次節に続く▽

「『御垂示録』二十九号、岡田茂吉全集講話篇第十二巻p48~49」 昭和29年03月01日