昭和二十九年三月一日御講話(7)

〔 質問者 〕一月二日の御教えによりますと「火素<かそ>の放射によって毒粒子が焼ける。浄霊は物質でないから霊を焼く」とあり、一月三日の御教えに「不純水素というのは、水素中の毒粒子、薬毒が固まったもの」とあり、また他の御論文によりますと「火素によって全滅し、漿液中に吸収される」とあります。この漿液、毒粒子、不純水素というのは、霊的なものでございましょうか、体的なものでございましょうか。

【 明主様 】両方です。しかし、こういうわけです。ラジオの科学講座というのを聞いてみると、最近の科学は、ウイルスというものは、医学では、無機物――無生物(生きてないもの)とも言えないし、有生物――有機物とも言えないというのです。それで学者の説が両方あるのです。無生物という説のほうがいまは多いようです。しかしぜんぜんそれにはならない。だからそこに決着はつかないと言ってますが、これはよくそれを言ってます。すなわち無生物というのは、生きてない――霊<れい>です。それから有生物(生きているもの)というのは体<たい>になっているわけです。ですから霊と体との間になるわけです。そういうわけだからして、霊が体になるわけです。私が書いているとおり、霊の曇りが濃厚になると、それからバクテリアがわく。自然発生です。それがだんだん育ってゆくと、それが有機物になり、そうするとそれが黴菌です。それだからして境界はないのです。だんだんに変化するわけです。浄霊によって焼くということはバクテリアを焼くわけです。だからバクテリアの手前というものが曇りの粒子というものです。それで曇りの粒子というものは、ぜんぜんまだ物質になっていないわけなのです。

 私がその前に書いたのに、つまり有限と無限ですが、顕微鏡で何万分の一とか何十万分の一とか、いまは一千万分の一を科学でつかまえることができると言ってますが、一千万分の一ぐらいでなく、一億万分の一、否十億万分の一でもあるのです。そうすると黴菌の大きさというものはだんだん小さくなるのです。どこまで行っても小さくなるのだから、結局無限です。だからいま顕微鏡で見るだけのものというのは、よほど大きなものです。それで、小さなものをつかまえたと言って喜んでいるが、まだまだ、どんな顕微鏡でもつかまえることができない小さなもの、そういうものがあるのです。結局顕微鏡を通して見るという人間の肉眼に限度があるのです。つまり無限です。無限ならチャンと理屈に合っているのです。有限的に解釈したら、それだけ理屈に合わないから、どこまで行っても駄目なのです。それで、無限の中で、物の一つの力というのが火と水だから、太陽の精と月の精と、両方は質が違うわけです。反対の質になっているわけです。そこでここ(掌)から火素が出ますが、火素というのは、太陽の精気の、ごく、つまり密度と言うよりか、むしろ「気」です。「霊」とも言えるが、むしろ「気」と言うほうが適切なわけです。こうすると火の気、火の霊気が放射されるのです。そうすると水素中の毒粒子が焼かれてしまうのです。それで分かるわけです。だから病気と言うが、いい文字を当ててあるわけです。病気の「気」という、気です。病の根本も「気」なら、浄霊のこれも「気」です。太陽の精気です。実際簡単なものなのです。分かりやすいのです。

 
〔 質問者 〕そういたしますと、体的のものが無限に小さくなると霊的なものになると考えてよいのでございましょうか。

【 明主様 】それでよいです。そこで、釈尊が「一切空」と言ったが、これもやっぱりうまい言葉です。「空」ということは、物質は結局将来は空になってしまうというわけですが、ごく究極を言ったものです。人間がこうしていても、いずれは死骸になる。死骸を土に埋めると、だんだん腐って、結局土と同化してしまう。そうするとなにもなくなってしまうのです。石でも金でも、結局年限がたつに従って、だんだん変化していってしまうのです。金というのは、一番固い物だから一番年限がかかるが、それでも何万年何十万年の間にはなくなってしまいます。それがまた、それから新しいものが生まれ、新規なものができるのです。そこで「無」と「有」――「実」と「空」とが交代で通じてゆくというのが宇宙の実相です。

 
〔 質問者 〕ただいまのに関連しまして、気が本<もと>になるとして、浄霊して毒素は軽減するその一面に、同気相求むるとか同類親和の法則で、その人に毒素があり曇りがあると、霊的に曇りはより増してゆく……毒のある所に毒が寄るとか、邪気のある所に邪気を呼ぶということはありませんでございましょうか。

【 明主様 】そういうことはありません。しかし、呼ぶのでなくて、霊が曇っていると、相応の悪霊が憑きます。だから見方によれば、呼ぶように見えますが、呼ぶのでもなければ、呼ばないのでもない、そういった一つの定義みたいなもので、そうなっているのです。こっちから言えば呼ぶということになります。また先から言えば、こっちに来るということになります。気まぐれでもないが、呼びもしないのに来るというわけで、霊のほうでは「あいつは憑きやすいから憑いてやれ」というわけで霊が憑くので、呼ぶわけではないのです。そうかと言って、霊のほうは曇っている人間を始終物色しているから、「あいつに憑くといい気持ちだ。悪いことをさせようと思えばするし、道楽をさせようと思えばするし」というわけです。そういうのがいまはたくさんあるのです。だから汚職事件の贈収賄をするのも、みんな霊ですから、「こいつに一つ金をウンと儲けさせて、道楽させたり、好き勝手なことをしよう」「こいつはオレの言うことをよく聞く」というわけです。ところが、そういうのが、神様のことを知っていると、憑いても自由にならないから離れてしまいます。そこで私は「汚職の母体」という論文を書きましたが、つまり、無神思想から生まれるわけです。だから汚職の根本は無神思想だと言うわけです。

 
〔 質問者 〕毒粒子というのは体的にも考えられるし、霊的にも考えられるということですが、そうすると、火素で焼いた場合に、火素で霊的の毒が灰になって、それが体的に変わってゆくのでございましょうか。

【 明主様 】灰になったら変わらないです。変わるのは生きているのです。死んだものは終わりになるのです。灰はどうしても火にはならないです。しかし火を消したものは、いずれは熱によって火になるというわけです。その区別を知っておかなければ。

〔 質問者 〕そうすると、灰は漿液に吸収されてゆくのでございましょうか。

【 明主様 】灰は吸収されないのです。大便や小便や痰になって出るのです。浄霊すると、あと下痢をするとか痰が出るとか、排泄物が出ますが、それが灰です。

 
〔 質問者 〕霊的の毒粒子が灰になって、それが漸次集合して、それが大便、小便になるわけでございましょうか。

【 明主様 】そうです。

▽次節に続く▽

「『御垂示録』二十九号、岡田茂吉全集講話篇第十二巻p44~48」 昭和29年03月01日