昭和二十九年三月一日御講話(5)

〔 質問者 〕救世教は救いの宗教であると御教えいただいてますが、神様の大愛とは、時によっては寿命のある者を殺し、時によっては寿命のない者をさらに命を長くする、というように考えてもよろしいものでしょうか。

【 明主様 】つまり神様に殺されるのでなくて、自分自身で滅びるような運命にするのです。その人によっていろいろで、それは単純には言えないので、複雑きわまるものです。それからまた、祖霊の関係があります。すなわち祖霊が、祖先以来の罪が非常に多いためにだれかを犠牲にしなければならない。それともう一つは、祖霊の罪の種類によって、現界で働くよりか霊界で働いたほうが罪が早く消える場合もあるのです。ですから、犠牲にする場合と、霊界で働かせる場合と、そのためにそこの子孫の、大勢いる中で、だれかを代表者にして、祖先の罪を早く消す場合は、むしろ祖霊が神様にお願いして、早く罪をとっていただきたいという場合には、犠牲にしたほうがよいことになるのです。だからそこのところはいろいろあるのです。けれども、要するに、信仰に入ってから犠牲になるのは非常によい理由があるのです。昨夜読んだお蔭話の中にも、ちょうどそういうのがありました。子供だかなにかが亡くなって、母親が非常に嘆いて、いくらか神様を怨むような気持ちがあったのです。そのうちに祖先の霊かなにかが憑ってきて、それはこういう理由だということをすっかり話したのです。それで初めて「たいへんよいことだった、ありがたい」ということが分かって、非常に感謝しているというようなことが書いてありました。だから非常に複雑な意味と、いろいろなことがありますから、簡単には言えないです。それから、信仰に入ってからは、どんなことがあっても、それは良くならんがための一つの形をとるのだから、喜んでよいわけです。それは時日がたつと必ず分かります。

▽次節に続く▽