「再びジャーナリストの考慮を望む」というのを書いてみました。この間書きましたが、もういっそう徹底して書いたので、読ませます。
(御論文「再びジャーナリストの考慮を望む」朗読)〔「著述篇」第一二巻二一七―二二一頁〕
いま読んだようなわけで、あんまり現代の文化のレベルと掛け離れすぎているために結局分からないのです。つまり現代の文化よりか少し上ぐらいのものだと分かるのですが、あんまり離れすぎているために、ボーッとしてしまうわけです。これもある時期まではしかたがないとしても、だんだん時期が切迫するに従って、嫌でも分からなければならないわけです。それで、そうとう研究している人もあるようです。だからもうそう長いことはないと思います。昨日も話したとおり、今年から神様のほうは表面的活動になりますから、救世教が分かるという人も、増え方がだんだん著しくなるわけです。そうして分かりだしたら、それはたいへんなものです。天手古舞<てんてこまい>をするぐらいに忙しくなります。もう一、二年だろうと思ってます。ちょうど霊界の進み方がそういうような具合になりつつあります。それの一番の刺激が自然農法と地上天国の完成です。それがちょうど一、二年に迫ってきてますから、もう一息だと思ってます。なにしろいまも読んだとおり、それこそ世界始まって以来初めてのことですから、なかなかたいへんな話です。釈迦やキリストのような人が二千年もかかってやったそれ以上のことを一遍にやってしまうのですから、それはたいへんな話に違いないです。それにしては、いっぽうから見るとばかに早いのですが、そうかといって、つい人間の感情として、早く救いたい……またよほど急がないと間に合わないのです。
最近Aという人からの「米国画信」が来ましたが、ニューヨークの何十階というビルディングに相当する所で、歩く所もそうとうあるそうですが、Aさんはドンドン歩いたのですが、アメリカ人はみんな休むそうです。もっとも所々に休む所があるのだそうです。それも、老人ならよいが青年が、アップアップいって休むというのです。実にアメリカ人の弱り方といったらすごいものだそうです。それはなにかというと医学のためです。いまはアメリカ人というのはほとんど、格好は丈夫そうですが、ほとんど手術をしてない人はないです。盲腸を取るとか腎臓を取るとか、体の内部を片端にしてない人はないそうです。だから格好だけは強そうに見えるが、その弱り方というものは酷いものらしいです。今度ニューヨークでアメリカ人が何人か信者になりましたが、なかなかおもしろい手紙です。今度の『栄光』に出ます。それで医学が進歩したと言って、アメリカ医学はたいへんなものだと言って、いまの新聞広告の薬の広告を見ても、どうも「アメリカ」ということを出すのです。いまさかんに出しているのは、アメリカの風邪薬だとか言って、ずいぶん広告料を使ってますが、本当のことを知っているわれわれからみると、恐ろしいくらいです。それだから救いの価値が大いにあるのです。アメリカは早いですが、そこで一、二年のうちにアメリカに大いに発展され始めるだろうと思ってます。
それから、しばらく時局について書かなかったので、書いてみました。
(御論文「時局雑感」朗読)〔「著述篇」第一二巻二一二―二一五頁〕
これはたいてい分かったような話ですが、どうも、政治家ばかりでなく、いまの日本人の風潮と言いますか、物を大乗的に見ないのです。つまり小さいことばかりに囚<とら>われるのです。このごろはアメリカの新聞記者がなかなか救世教を注目していて、いろんな批評を聞くのですが、その見方が実に当たっているのです。日本人はとても足下にも寄りつけません。ですからして、地上天国などができるのを非常に待っているのです。そうして、できたらさっそくこれを世界的に知らせようというのです。ところが日本の新聞記者というのは、そういう考えはぜんぜんないのです。もし救世教を注目するとすれば、「なにかアラはないか」「なにか攻撃する種はないか」と思うぐらいだろうと思います。それで他のいろんな新宗教やなにかの有様を見ると、救世教もそれとたいした違いはないと思って、本当に見ようとしないのです。見るというよりか、むしろ想像です。だからそれに対して、日本の新聞記者のそういう点があんまり冷淡なので、アメリカの人のほうが憤慨してます。結局アメリカのほうがこの救世教の事業に対して早く分かりやしないかと思います。そのほうが早く発展しますから結構です。大本教のお筆先に「灯台下は真暗がり、遠国から分りて来るぞよ」というのがありますが、ちょうどそういうようなことになるだろうと思ってます。
昨日は立春で、一昨日は節分ですが、この節分というのは大本教にたいへん関係があるのです。最初大本教を開いた神様は国常立尊<くにとこたちのみこと>という神様です。この国常立尊という神様は、鬼門の金神と言って、鬼門に押し込められたということになってます。この神様について話してみます。この神様は元世界を支配していたのです。それで、あんまりやかましい……というよりか、あんまり厳正で、厳しいので、とてもやりきれないというので、他のたくさんの神様が艮(東北)に押し込めたわけです。その神様は三千年の間隠退されて、その間霊界にいて閻魔大王となっていたのです。それが今度「艮の金神はこの世に閻魔と現われて、世の立替え立直しを致すぞよ」というお筆先があります。そういうわけです。それについて、最初のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」ということと「今度は炒豆<いりまめ>に花の咲く時節が参りたから、神も嬉しいぞよ」というお筆先があります。節分には豆をまきますが、これは、そのときの邪神の総大将が天若彦尊という神様ですが、そのときに「炒豆に花が咲いたらふたたび出てこい。それまでは出られないように押し込める」ということなのです。ですからしてあの豆まきということは、そういう意味なのだそうです。これは信じられないことはないです。ところが、それに対してお筆先には「今度は炒豆に花の咲く時節が来るぞよ」というのですから、炒豆に花が咲いたわけです。それがいつかというと、明治二五年に始めたのですが、私は一昨日の節分の日にたいへんな神秘、奇蹟があったのです。それは、これからいよいよ国常立尊様が表面に現われるというわけです。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という「艮の金神の世になりたぞよ」ということは、自分が世界の支配権を握るということです。それが、いままでは霊界だったが、これからは現界に現われるのです。それが一昨日その型があったのです。神様はすべて型でやり、型を見せるということになってます。ですから一昨日現われた型というのは、私は三年も前から努力していたのです。それがだんだん延びていて、一昨日それがはっきり出たのです。それで私は非常に喜んでいるのと、大いに祝ってよいと思っているのです。では、その結果どういうことになるかというと、これは閻魔大王というのですから、審判の神様です。つまり善と悪とを立て分ける、善は栄え、悪は滅びるというお働きです。それがこれからはっきり現われてくるわけです。
その点から大いに変わるわけです。世界も、特に日本がそうです……霊界から言うと日本が元ですから……。ですから、つまり霊界が明るくなるわけです。明るくなるということは、勿論火素<かそ>が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボツ増え始めるわけです。それからいろんな悪いことも秘密なことも浮かんでくるわけです。最近いろんな汚職事件があっちからもこっちからも出てきますが、これもいままででは珍しいことです。これもソロソロその最初の現われのように思われるのです。そういうわけで、ある時期にゆくと、病気の増えるのも……これは一遍になりそうです。ですからそうなったら、いつも言うとおり、とても忙しくなりますから、いまからその覚悟をしていてよいです。その代わり信者の人でも、少しボヤボヤしていたり、あるいは神様の言われることに違ったりすると、手厳しくやられることになるのです。それもボツボツは出ているようです。これはあなた方もよく知っているでしょう。それで、お筆先に「神厳しくなると人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、これは非常におもしろいです。そこで、人間が我を通していばったり、言うことを聞かなかったりするとやられる、ということが、だんだんひどくなるわけです。そういうわけで、いままでとは違ってきます。特に、来年いっぱいで熱海の地上天国が完成しますから、これができると、それは現界的にはっきりしてきます。まだできかかりですからそこまで行ってませんが、まだボツボツというところです。熱海の地上天国もやっぱり型です。神様はなんでも型で見せますから、型ということをよく注意して見なければいけないです。それで、つまり型が育つのです。そういうようなわけで、大本教というものは、やはりたいへんな意味があるのです。しかし、大本教の意味というものは、つまり私の仕事の準備です。「弥勒三会<みろくさんえ>」と言って、仏教のほうの言葉があります。「弥勒三会の暁」とか、あるいは「弥勒三会の鐘が鳴る」という言葉がありますが、弥勒というのは、三人あるのです。それは日の弥勒、月の弥勒、土の弥勒というわけで、日、月、地になっているわけです。それで、弥勒の中心というのが伊都能売<いづのめ>の身魂です。大本教の教祖という方は、「イヅの身魂」と言って、つまり経<たて>です。これは父になるわけです。次の出口王仁三郎、聖師様という方は母の身魂になるわけです。だから、変性男子<へんじようなんし>と変性女子<へんじようによし>と言って、女でいて男、男でいて女というわけで、霊<れい>と体<たい>とは違うわけです。それで、教祖の父と聖師の母との間に生まれたのが私になるわけです。ですから私が伊都能売というわけで、経と緯を結んだ真ん中が私になるのです。教祖のほうは経ですから霊になり、聖師のほうは緯だから体になり、それで霊と体を結んで力が生まれるのです。力というものは、霊体一致、霊体が結んで力を発生するのです。ところがいままでは、釈迦、キリストにしろ、ああいった偉い人は結んでなかったので、片方だったのです。釈迦は霊でキリストは体、釈迦は経でキリストは緯ですから、力がなかったのです。それで力というのは、一番は病気を治すことです。ここ<掌>から出る、目に見えない、一つの気、火素と言いますが、この力というのが、つまり霊体結んだ力なのです。ですからこういうことがだんだん分かってくると、実にはっきり分かるのです。いままでずいぶん偉い人でも、こうやって病気を治すということはなかったということは、力がなかったのです。ということは、霊体が結ばれてなかったのです。そしてまた、時期がそこまで行ってなかったということです。この話はいずれだんだんにはっきり分かるようにします。それで、神様はいままで、それをはっきりしてはいけないということになっていたのですが、今度いよいよ節分から変わったのです。ですからこういう点も、これからだんだんはっきり説いてゆきます。そうするといろんなことがいっそうよく分かります。