今日は立春とともに旧の正月の元日になるそうです。いつも、立春というが、早いように思うのです。とにかく今年は大いに意味があるのです。まだ発表はできませんが、昨日、今日すばらしいことがあったのです。いずれ話をしますが、それは神様の型です。それで、非常にめでたいことなのです。というのは、節分というものは「福は内、鬼は外」で、鬼の災いを避<よ>けるという、昔からの行事があるのです。そのためにほうぼうの神社仏閣で豆まきをやるのです。ところでこれは、前にも話したことがありますが、あべこべなのです。鬼というのは偉い神様なのです。艮の金神国常立尊<うしとらのこんじんくにとこたちのみこと>という神様です。今日の御讃歌にも「常立の神」というのがありましたが、国常立尊のことを略して常立の神と詠<よ>んだのです。それからもう一つ「艮の神」ということも入れてありました。そういうようで、つまり事の起り始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。そう古いことでもないのです。もっとも三千年ということになってますから、三千年前はやっぱり人間の世界です。この国常立尊という神様が世界的に支配していた時代があったのです。ところが非常に厳格な神様で、間違ったことは許さないというために……大本教のお筆先などを見ると分かりますが……つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういうやかましい神様は押し込めなければ楽はできないというわけで、押し込められたわけです。押し込めたほうの神様は天若彦(あまわかひこ)神というのです。これはよく天邪鬼(あまのじやく)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、なんでも横車を押すという性格の神様です。それで国常立尊という神様を、艮(東北)に押し込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌み嫌ったのです。もっとも忌み嫌うわけです。人間のほうが間違ったことをすれば、そういうやかましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけです。そうして鬼門除<よ>けと言って、いろんなことをやったのです。そういうわけで、三千年押し込められたとしてあります。そうしてその神様が明治二五年に大本教の教祖の出口なおという方に憑られて非常に怒鳴ったのです。出口なお刀自の口を借りて怒鳴ったのです。その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼です。それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引っ張られて、二〇日か三〇日間勾留されたのです。それが大本教の始まりなのです。その艮の金神という神様は、押し込められて肉体のほうはなくなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁くお役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。それが、本当は至正至直の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。これは霊がそういうことを言ってました。それから心の善い人がゆくと、非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。これはおもしろいです。というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金神はこの世の閣魔と現われるぞよ」とありますが、「この世の閻魔」ということは、現界の審判をなされるということです。いままでは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。「この世に現われて」というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」とありますが、すべて現界的になるわけです。では、それはいつかと言いますと、だいたい明治二五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。霊界でも三段になっていまして、一段ずつだんだんと近寄ってくるのです。それでいよいよ最後の段をすまして、直接現界に現われるというのが今日からなのです。そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。恐ろしいですが、しかしそれはこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持っていればありがたいのです。いままで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。それから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。最近いろんな汚職事件がめちゃめちゃに現われてきました。
よくもそういった不正事件が出るということは、いままでに例がないように思います。これもいわゆる審判が近寄ったということを現わしていると思います。それで、艮の金神様が表に現われるということは、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。やっぱり霊界が明るくなるのです。だからいままで隠していたり隠蔽<いんぺい>していたものが現われるのです。目に見えるわけです。そこでいろんなそういうことが出てくるのです。それから今年からまた一段と病気が多くなります。それとともに薬毒がだんだんはっきりしてくるわけです。以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。そうなると救世教というものの発展が著しくなり、大いに発展するわけです。その段階に入ってきたわけなのですから、大いに働き甲斐があるわけです。いままで押さえつけられていたのが、その押さえつける力が弱るわけです。いままで一〇回も二〇回も話をしなくては分からなかったのが、今度は五、六回で分かるというような意味になるわけです。そうかといって、神様のことは急に目に見えるようには現われないものなのです。つまりなんとなくジリジリジリジリ進んで行くわけです。今年、来年、再来年というように、年々早くもなるし、それからはっきりもしてくるのです。とにかく今年から神様が表になったということは、たしかなのですからして、そこで救世教というものは、今年から世界的に非常に知れてゆくわけです。いわば、いよいよ舞台に上がったわけです。いままでは楽屋でいろいろ支度していたのが、いよいよ支度ができたので檜舞台に上がるということになるわけです。やっぱり芝居と同じですから、序幕です。これはお筆先にありますが、「今度は三千世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」というのがあります。お筆先というのは実によく書いてあります。というのは、いままでずいぶん教団の邪魔をしたり、いろいろ良からぬ人が入ってきました。ところがそういう人に「あいつは悪い奴だとか、あいつはいけない」とか言いながらも、結果においては、なかなか良い役をしてます。それは悪い人間でなければできないような良い役をしてます。だから本当に御苦労様と礼を言いたいくらいです。これがちょうど、いま言った、善の役と悪の役と両方こしらえてあるということがはっきり分かるのです。もっとも芝居でも映画でも、ああいった脚本でも、善人ばかりでは芝居にならないので、悪人に善人が苦しめられるという、そこに一つの脚色ができるのですから、なるほど芝居という意味から見ると、悪の役も入り用だったわけです。
そういうようで、神様がやられることは実に深いです。ですから「あの人はああいうことをしているから悪い、間違っている」ということは、とても言えるものではないです。そう言っている人は、実はその人自身が悪いことをやっていて、悪いことを言われている人は良いことをやっているかもしれません。お筆先に 「一生懸命、神のためと思い、間違うている事をしている人は、神も困るぞよ」というのがあります。「これが神様のためだ、これが本当だ」と言って一生懸命にやっていることが、あんがい神様のお邪魔になっているというわけです。そこで人間、特に信者は、善とか悪とか決めることはたいへん間違っているのです。また分かるものではないのです。ただ、自分が良いと思うことをしていればそれで良いので、人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。なにしろ世界人類を救うというのですから、開闢<かいびやく>以来ない大きな仕事なのです。お筆先に「大きな器には大きな影がさす。だから器が大きくなければ神の仕事はできんぞよ」というのがあります。よほど大きな器で、要するに大局的に見るというわけです。「大乗の善は小乗の悪であり、小乗の善は大乗の悪である」ということはなにごとにもあります。私はこの間も書いて、『栄光』に出ていると思いますが、日本の忠君愛国の、天皇のため日本のためということが実は悪なのだから、日本のため陛下のためのみを思うから大東亜戦争のようなものを起こしたのです。その「ため」と思った結果、朝鮮も支那も、ほうぼうの国も、みんな酷い目に遭うわけです。そうしてみると、我欲、自己愛という結果になります。だから世界人類のためということが本当なのです。私は最初から忠君愛国的のことはぜんぜん言わなかったのです。どうしてもそれでは結局悪なのです。そこで世界人類というところに目標をおけば、これは本当に正しいことなのです。この小乗的考え方が非常に難しいのです。そこで、神様のために一生懸命になっていて、実はお邪魔をしているということは、やはり小乗的のためなのです。自分の小乗的頭で考えると、それはどうもいけなくなるのです。ところが大乗的というのは、要するに結果です。一人でも多くの人を仕合せにするというところに目標をおけば、別に難しいことはないので、分かるわけです。自分の家族の者でも、亭主とか女房とか親父とか娘とか伜<せがれ>とかが、どうも神様のことが分からない、いつも反対して困るということは、ある程度は分からせたいと思ってもよいが、あんまりそれに固執するということは、やはり小乗的考えです。それよりか、他人、世間の人間を多く分からせたいと思うことが本当です。そうして他人を一人でも多く救えば、その酬いが自分に来るからして、自分の家族でもなんでも分かるというわけです。よくお蔭話に「どうも自分の伜が分からない」とか、そういうようなことがありますが、これはまだ本当の線に入ってないのです。だから自分の家族などは神様にお任せしておくのです。そうしてどこまでも世間一般の人を一人でも多く分からせなければならないということです。それもこれも、その人によって分かる時節がありますから、ある程度までは一生懸命にやっても、その先は神様にお任せするというようにしておれば、かえって結果がよいので、早く分かります。そこで、こういうことがあるのです。いま言ったとおり、艮の金神様を押し込めるほうの総大将が天若彦尊とすると、天若彦尊という神様は天邪鬼的で、非常に素直でないのです。いわゆるケツ曲がりで、なんでも曲げるのです。それで、その一派がずっと世界を支配してきたからして、人間の心というものが、みんなそういうふうに歪んできたのです。だから、どうも逆になるのです。良いと言って奨められると、ちょっとあべこべになって、「あんまり奨めるから……そんなしつこく言わなくても、オレだって分からないことはない」と言って、逆に変に反対になるのです。そういう癖が非常にあるのです。特に日本人には多いです。ということは、天若彦尊の系統が多いわけです。そこで、お筆先に「素直が一等であるぞよ」ということがあります。というのは、あまりに人間が素直でないからです。いろんなことで聞いたり見たりしても、アメリカ人などは非常に素直です。だから一致するのです。日本人というのは、その点においては実に変わってます。アングロサクソンのほうは、政党でも二つか三つしかありません。とにかく政党でも宗教でも、なんでも日本が一番多いようですが、これはまた実に、反対な、素直でない、一致しない、というのは、日本人の性格です。ところが日本人というのは霊的に見ると一番高いのです。一番優秀なのです。だから、浄霊をするにも……いまに世界中の人を浄霊するようになるでしょうが……日本人が一番治ります。それは霊が一番強いですから……。そこで日本という国は、邪神のほうでは一番に狙うわけです。ですから日本人が良くなると世界中が良くなるのです。世界の種みたいなものです。それをいまの人は知らないから、かえって白人のほうが良いと思っているのです。女の人などはアメリカの兵隊とか、そういったアメリカの人に惚れるのです。日本の青年のほうが軽蔑されているのです。いまの若い女性は、アメリカ人に身を任すということを非常に喜んでいるようです。というのは一つの崇拝です。あっちの人が偉い、上等だと思っているのです。ところがナンゾ知らん、日本人が一番上等なのです。そこで、艮の金神様のお筆先にそういうことを非常に残念だということが、よくお筆先にあります。ですから霊的レベルは、日本人は地平線より上にあるのです。日本人以外は全部下なのです。ところが日本人があっちの人を崇拝すると、やっぱり下に落ちてしまいます。ですから、これも……艮の金神様という最高の神様が下に落ちて、枝の神様が上にのさばって好き勝手なことをしている……「神も残念であるぞよ」というお言葉があります。それはそういう意味なのです。それがとにかく現界で三千年続いたのが、いよいよ表に現われるという、その機関が救世教です。そこで救世教が今年からいよいよ世界的に知れてくるわけです。これは神様はちゃんとそういうふうな仕組みになってますから、そうなることは分かってます。それが、いよいよ今日がその初日になったわけですから、そのつもりで見ているとよく分かるわけです。それで今年メシヤ会館ができるということは、その現界的に変化をする、転換するということがピッタリ合うわけです。いつも言うとおり、熱海は体(たい)のほうですから、つまり現界的に現われるわけです。地上天国が、今年は会館と水晶殿<すいしようでん>、来年は美術館というようにできるということは、とにかくそれからが本当に世界的に知れてくるわけです。日本から知れるのが本当ですが、なにしろ日本中がいままで外国崇拝になってますから、神様はそれを利用して、外国から先に分からせるということになっているのです。お筆先に「灯台下は真暗がり、遠国から分りて来るぞよ」というのがあります。一言にして実によく……寸鉄殺人的に書かれたわけです。そういうようなわけで、いよいよこれからおもしろくなってきたというわけです。そうして、それについて、地上天国は、芸術が救いの一つの大きな役目をするわけですが、それはどういうわけかと言うと、地上天国ができますと、それは見物人がたいへんです。少なくとも日本人の半分以上は見に来るでしょう。この間のアメリカの新聞記者のグリリという人と、もう一人は名前は忘れましたが……観光事業のほうを専門にしている人です……この人たちの話では「アメリカに来ればどうしてもナイアガラの瀑布を見なければならない。それと同じように、日本に来れば熱海の地上天国を見なければならないということになる。岡田さんはそれほどには思っていないだろうけれども、たしかに僕はそう断言する」と言っているそうです。ところが、私はそれ以上に思っているくらいです。そうするとみんな見物に来ますが、その見物に来た人は、霊的にはちゃんと神様のほうに結びつけられてしまうのです。そうしておいて、結びついた人の中にもいろいろな人がありますから……結びついた人は因縁のある人ですが、因縁のある人の中にも上中下があるわけですから……つまり結びついた人は救われる候補者になったわけです。選挙民の投票の札をもらったようなわけで、政治に対する容喙権を得たわけです。ところが、なにしろ長い間に穢されてますから、その資格に落第する人があります。だからみんながみんな救われるわけではないが、まずある数は救われるわけです。ですから、要するに地上天国というのは、神様のメンタルテストみたいなものです。そうして救われる人と救われない人との立て分けという意味もあるし、それからまた見に来た人は、みんなそこである程度霊は浄められますから、そこで救われる資格に、一つの印<しるし>をつけられるわけです。だから神様はどうしても見なければならないような物を造られて、そうしてそういう方法をとられるということは、実にうまいと思います。これが、宣伝ビラとか講演とかいろいろなものもあるのですが、一遍に多くの人を寄せたり、知らせたりするということは、とうていできるものではないです。こういうすばらしい、見なければならないような物を造るということは、実になんとも言えない巧妙な方法です。そう長くかかってもしようがないから、三年や五年の間に何千万人も来るだろうと思ってます。それほど評判になるわけです。それで、とにかくこれは、アメリカの新聞記者も言ってますが、いま世界で私のやっている仕事ぐらいの大規模な有意義なことをやっている人はない、と言ってます。これは私は予期したとおりですが、とにかくアメリカの人がそれだけ認める、発見したということは偉いと思います。それはとうてい日本人などは足下にも寄りつけません。それで非常に期待して、できたら大いに世界的に宣伝するということを言っているのです。だから大いに張り合いがあるわけです。けれども、神様のほうから言うと、なんでもない話で、着々とそういう品物を造られているわけなのです。いま行ってみても、かなり大規模にすばらしいのですが、私の設計ではこれからまだまだずっと変わります。それはとうていいま見ただけでは想像がつかないくらいの立派なものになります。ですから話したところで、ちょっと想像がつかないから、話をしてもしようがないです。この間もグリリさんがどこかの大使館に行って話したそうですが、そういうのはぜひ研究したいというようなことを聞いたそうです。「私はなにも言わない、とにかく行ってみることだ、それよりほかに言う必要はない」と言っていたそうです。そういう具合で、まったく私としてもしゃべりようがないくらいなものです。なにしろ神様の計画は、まだまだとうてい想像がつかないくらいなもので、規模も大きいし、立派でもあります。それで来年は美術館の建築にかかりますが、美術館は箱根とはぜんぜん違う様式です。だいたいはコルビュジエ式ですが、そのほかに支那風の所と日本風の所も取り入れることになると思います。これはあんまりケバケバしくなくて、あんまり新しがらない、ごく落ちついた、西洋の中世的の気分、感覚を大いに取り入れる考えです。そうして無論三階建てですが、三階の特別室などは、とにかく日本美術としての代表的のような物を並べます。それで、アメリカあたりの知名の士をずいぶん連れてくるそうで、ロックフェラーなどにも話しているようです。これは先の話ですが、無論アメリカにもああいう物を造りたいと言うに違いないですから、そうしたら私はアメリカにも設計して造ってやろうと思ってます。行くのは面倒くさいから、図面と話でやろうと思ってます。そうして無論美術館も、最初はそうはゆかないでしょうが、最初はあっちのそうとうな美術館を、いまできているのか、さもなければこしらえるかしますが、そうして東洋美術の世界的の宣伝を本式にやろうと思ってます。去年やったような、巡回展覧会で各地をまわったのでもそうとう刺激はしたようですが、あのくらいでは、なかなか本当の紹介にはならないです。昨日ある人……文化財保護委員会の役員をしており、京都の人です……が、日本画がほとんど油絵になってしまって、日本画というものがなくなってしまった、という話からいろいろ話したのですが、それについて横山大観などが、大いに憤激して、東京の池之端<いけのはた>に家を建てて、日本画の復活運動をやるというようなことを言って、結局岡倉天心に帰れというような意味を主にしてやるようです。それについて私は言ったのです。つまり日本画家、特に若い画家が油絵になってしまうという一番の原因は、東洋の良い物を見る機会がないからです。また見ようと思っても見る機関がないからです。ところが油絵のほうは、どんな物でも見ようと思えばすぐ見られるのです。そこでみんなパリに行きたがります。パリに行けば、昔からの有名な絵はすぐに見られます。日本の展覧会でも、西洋の絵ならいますぐにも見られます。ところが日本の良い絵とか、支那の絵は、見ようと思っても見られないのです。では、博物館はどうかというと、私はいつも国辱だというぐらいなものです。本当の日本画にしても支那画にしても、良い物はそれこそ一割もないくらいで、百分の一くらいなものです。ほかの美術館にはないし、個人の美術館があっても、みんな油絵です。ですからつまり見せなければいけないので、見せて初めて「これは良い物だ、これをまねしたい」という意欲が起こります。ですからそういう物がないから、油絵のほうに走ってしまうのだ。そこで、そういう良い物を見せるという、それを私はこれからやるつもりだ、と言ったら非常に共鳴して、「ぜひやってもらいたい」と言ってました。ですからいま言う東洋美術の良い物を西洋に紹介するとともに、日本人に見せなければならないのです。そうでないと、日本画はなくなってしまいます。この間『栄光』に書きましたが、展覧会に行って、私は最初入ったときに……油絵はいつも後にあって、最初は日本画だったのですが……今年は油絵の方を先にしたと思ったのです。それで連れの者に「今度陳列が変わったのだね」と言ったところが、「これは日本画ですよ」と言うから、よく見るとなるほど日本画に違いないのです。絵の具は日本のに違いないです。ところが絵を見たら油絵です。これはたいへんだというわけだったのです。しかし心ある者はそれを歎いているようです。ですからそれには本当に良い物を見せなければならないのです。私はそういうことを考えて、箱根美術館にも出さなかった良い物をそうとうとってあるのです。というのは、そういう物をやたらに出すといたむのです。特に絵はそうです。ですから絵は短期間でなければならないのです。ところが箱根美術館ではときどき陳列替えをするのはたいへんですから、どっちかというと、それほどの物でもないような物を出していて、ときどき勝<すぐ>れた物を出すようにしていたのです。そういうわけで、本当のすごい物というのは熱海の美術館ができたら本当に出すつもりです。特別室なども造って、ここはとうてい見られないというような物も見せます。これはアメリカの偉い人などが来たときに、そこに招待して見せるつもりです。そうなると熱海の地上天国は無論世界的の話題になりますから、外国から来る人たちもたいへんだろうと思ってます。そこで救世教というものが一遍に世界的になるわけです。アメリカの人は「箱根美術館」「熱海美術館」というのは本当ではない、「救世教美術館」としたほうがよいと、非常に言っているのです。私もそうしたいのだが、なにしろ日本は新宗教というのは信用がないから、そうするとかえって天若彦的に考えられるから、そこで無事に、当たらず触らずに「箱根美術館」「熱海美術館」としたのですが、いずれは「救世教美術館」という名称になるでしょう。もうしばらくはそこまではゆかないわけです。
これからのだいたいの動きをお話ししたわけです。