この間、例のアメリカの新聞記者でエリス・グリリという人が、日本の主な新聞記者を呼んで私の宣伝をしてくれたわけです。そのときに「救世教の岡田茂吉というのを知っているか」「よく知っている」「あの人のことを新聞に大いに書かなければならないが、どうして書かないのだ。われわれが見て、日本で岡田というあの人ぐらい偉い人はないではないか」と言ったのです。そうすると「偉いかどうか分からないが、いろいろ欠点がある」というわけで、たぶん静岡裁判やなにかのことを話したらしいと思います。そうすると「それくらいのことがなんだ。あの人がやっている仕事は、その一〇〇倍ぐらい大きいではないか。そんなことは問題にならないではないか」と言ったので引っ込んでしまって、目を白黒していたそうです。「私は日本に四年前に来て、日本人のいろいろな偉い人に会ったけれども、岡田茂吉ぐらい偉い人は日本にいないではないか。だから君たちは大いに書かなければ駄目ではないか。なにしろ病貧争絶無の世界という、地上天国をこしらえるというのだからして、世界平和の建設事業だ。これほど大きな抱負でやっている人は、おそらく世界にないだろう。しかも着々と実行に移している。そうしてあの大仕掛けないろいろな地上天国を造っているということだけでも、すばらしいものではないか」と言っていろいろ話したそうですが、実に痛快だったという話です。その通訳をした人は信者で、浮世絵専門にやっている人で、英語はかなりできるのです。そういうことがありましたが、アメリカのそういう人から比べると、日本のジャーナリストはあまりに小さすぎるのです。あるいはしかし、日本ではいままではそれでよかったのかもしれません。つまり私のほうが大きすぎるために、日本の新聞記者では理解ができないのだろうと、私はそういうふうに思ってます。それについて書いてみました。
(御論文「再びジャーナリストの考慮を望む」朗読)〔「著述篇」第一二巻二一七ー二二一頁〕
「幸運の秘訣」というのを書いてみました。これは前に書いたことがありますが、今度はもっと徹底して書いたのです。未信者などに話をする場合にもっと分かりやすく書きました。こういうような言い方だと、幸福と信仰との関係がよく分かると思います。
(御論文「幸運の秘訣」朗読)〔「著述篇」第一二巻二〇六ー二〇九頁〕
いま読んだようで、霊界は層になってますから、そのとおりが写るので、つまり層というのが人間の魂の居所なのです。ところがこの魂というやつが人間全体を支配しているのですから、魂の居所ということが資格です。だから魂の資格さえ上になっていれば、ぜんぜん苦しみはないわけです。しかしそうかと言って、人間いままでにいろいろな罪穢れや薬毒やいろいろなもので汚しているから、その掃除をされなければならないのです。そこで、信仰に入ると魂だけは先に上のほうに行ってしまいます。そうすると魂だけが光を持つと、肉体にある汚れがどうしても魂と相応しないから、魂の地位だけにきれいにならなければならない。浄まらなければならない。それが浄化作用です。だから信仰に入ってからの浄化作用と、未信者のときの浄化作用とは意味が違うわけです。その区別を知っておかなければならないのです。未信者のときの浄化作用というのは、その人の健康を維持するために自然に浄化作用が起こるのです。その浄化作用が起こらなければ、その人は死ななければならないのです。だから人間できるだけ生きて働けるように自然浄化が起こるのです。自然浄化とは悩み苦しみによって掃除されるわけです。そこで、よく修行などをして、断食をしたり、山に籠もったり、いろいろな難行苦行をするということは、その掃除をするために自分から苦しみをするわけです。ふつうの人は他動的に苦しみがぶつかってくるのですが、難行苦行というやつは自分から進んで難行苦行の世界にぶつかってゆくわけで、自動的です。その点が違うわけです。ところが苦しみによって浄められることを知らないからして、苦しみを逃れるために、またいろんな嘘のことをやるのです。ごまかしとか、金が足りなくて苦しめば人を瞞して金を得るとかして、次の罪を作るから、苦しみを取りながら次の苦しみを作っている。結局二進<にっち>も三進<さっち>もゆかなくなって地獄のドン底に落ちるというので、これは世間にたくさんあります。ですから病気もやっぱりそうです。病気を免れるために薬で一時的に固めようとして、第二、第三の病気を作るというのと、いま言ったこととは同じ理屈です。そういうことがいままで分からなかったのは、勿論信仰のないためですが、いままでの信仰では徹底して説いてなかったです。他の抽象的に苦しみは罪のためだというように単純に考えていたのです。それで、いま霊層界のことを書いたのは、つまり徹底して書いたわけです。ですから罪というものや、そういうことの関係がはっきり分かっていなかったのです。よくお蔭話にありますが「自分のような罪穢れの多い者には資格がない」とか、「それにもかかわらずこういうお蔭をいただいた」ということがありますが、なるほど自分の思いのある罪穢れもあるに違いないですが、思いのない罪穢れもあるのですから、漫然と罪穢れと言っているのです。ですから罪穢れと人間の幸不幸がいままでははっきり説かれてなかったのです。私はいつもお蔭話を見るときに、罪穢れ罪穢れとよくありますが、一番はっきりしているのは薬を使ったことです。しかし薬を使うということが、実は自分で悪事をしようと思ったのではないので、かえって早く丈夫になって働こうと思ったために薬を使ったので、要するに薬というものは病気を良くするものだということに瞞<だま>されていた被害者です。これは詐欺どころではないので、一番大きな欺瞞です。そういうふうに考えてくると、薬を服むという、一つの瞞しを受けていたわけです。そしてまた、お医者でもなんでも悪意ではないので、結局において人を助けようという考えには違いないから、善意の罪、善意の一つの詐欺です。妙な話ですが、そういうのがピッタリしているわけです。というのは、世の中の組織がそうなっているのです。それは夜の世界であったために、はっきりものが分からなかったからです。ほとんどがそういう間違ったことが行なわれていたのです。それが長い間そうなっていて、それを発見する人がなかったというためであったので、これは人間の一つの運命です。それを発見ができないで苦しみながら、そういうものとして続けてきたのです。それがいよいよ神様は私を使って発見したということは、教えたわけです。これはみんなよく知っているでしょうが、そういうようなわけで、運が良くなるということは、どうしても霊的地位が上に行くということなのです。だからして「どうも思うようにゆかない、困ることが多い」ということは、結局自分の霊界の地位が低いからです。たとえてみれば「自分は信仰に入ってありがたい、よく分かるが、どうも親父の奴は分からない」また「娘も伜<せがれ>もこれに反対してしようがない、どうしたらよいだろう」というように考えている人はずいぶんあります。それは自分の霊層界の地位が低いからです。もし自分が高ければ、自分の家族の者は霊線が繋がってますから、自分の霊が向上すれば、その繋がっている枝でも幹でも、自分の地位のほうに引っ張り上げられるわけです。私がいつも言う「分からなかったらウッチャラかしておけ、急<あせ>って早く信仰に入れようという考えはいけない」ということはそういうことです。ですからそういうことはぜんぜん考えないで神様にお任せして、自分だけが一人でも多くの人を助けて、神様のお役に立つというようにすれば、自分の霊が上がって行きますから、そうすると他の者も自然につり上げられるから、黙っていても分かるというわけです。結局において、根本の根本というものは自分の魂の居所にあるのです。ただし魂だけが上に行っても、自分の霊やあるいは肉体が伴わないということは、そこにまだ汚れがあるからで、それの浄化が起こるわけです。しかしそういう場合には浄化が早くすむわけです。そういうことが分かると、別に迷うことや苦しむことはないわけです。しかしそこまで覚れるということが、なかなかたいへんなのです。この覚りは本当の真理です。いままでいろいろな宗教などで説いたことよりずっと上ですから、その点などがよく分かると、いろいろな、宗教、思想、哲学というものまで分かります。この話はそのくらいにしておきます。
ちょっとおもしろいことを書いてみました。前にいくらか書いたことがありますが、これも変わったことも書き足してありますから、参考になると思います。
(御論文「神様と私との関係」朗読)〔「著述篇」第一二巻二二三ー二二五頁〕
そういうようなわけで、非常に力も増したし、非常に良いのです。その代わり、時によると困ることや厄介なことがあります。自分のやることが、いろいろな順序が違ったりすると、神様から気をつけさせられると言いますか、自分の神様が気をつけると言いますか、ちょっと具合の悪いことがあります。一昨日お茶の先生が来て……私はお茶を習ってはいないが、お茶を点<た>てたとき飲むだけなのですが……茶席で支度ができたからと案内に来たのです。そうすると、茶道具屋が来ていたのです。家の奥さんが道具屋も一緒にお茶を飲ませようと思って、その部屋にいたわけです。ちょうど私と並んで、私が先に飲み、その次に道具屋が飲みますが、そうすると私が急に気持ちが悪くなって、いても立ってもおられなくなったのです。そのときは気がつかなかったのですが、すぐに立ってその部屋から出たのですが、「そうだ、道具屋と並んで同じお茶を飲んだからだ」ということが分かったわけです。それは霊的にはこんなに<ヽヽヽヽ>違っているのですから……。そのときには私の霊が下に下げられるわけです。それで苦しくなるわけです。そういうことがときどきあるのです。ウッカリしていると思いもつかない苦しみやいろいろあるのです。家の人もだんだん慣れてくるが、いまのことも、奥さんも初めて知って、これから気をつけようということになったわけです。それからおもしろいことには、この静岡事件から後は、私は以前のように……以前は事によっては分からないことは神様に伺ってやるのですが、そうすると逆なことを教えられるわけです。それで後でそれが分かって神様に伺うと「もう必要がない、そのやり方は間違っている」つまりいままでの間接が直接になったわけで、それが分かったので、それからは止めました。そういうことはいままでなかったからして、よく神様からお知らせがあったとか、神様にお伺いするということがいろいろありましたが、それはつまり神様が間接だからです。つまり神人合一ということは、そこに分けられていないわけです。同じになっているわけです。非常に良い点もあるし、慣れるまではいま言ったようなことがあるのですが、だんだん慣れてゆきます。ですからフッと浮かぶことでも、それでよいことになるわけです。地上天国でもその他いろいろ造る場合でも、庭なら庭を、どういう形にするとよいということもすぐに浮かんで、その情景が見えるのです。見えると言っても、形に見えるのでなくて、霊的に見えるのです。だから非常に簡単なわけです。どっちかというと張り合いがないわけです。前のように考えたほうが張り合いがあります。そういうわけですから、いまは熱海の地上天国、美術館などもちゃんとできているのです。部屋の拵え方からみんなできているので、張り合いがないような気がして、次のことを考えているのですが、それでは早すぎるし、妙なわけです。こういう感じの人は、いままでおそらくなかったでしょう。
(御講話おわり)