それから浄化作用ですが、これはみんなよく知っているでしょうが、だんだん強くなってきてます。来月立春祭を過ぎると、またかなり強くなるわけなので、信者の人はよほどボヤボヤしていられないことになるのです。というのは、つまり片づくと言いますか、良くなる人と悪くなる人がはっきりするとともに、肉体ではもういけないというように、つまり決められるわけです。これもあんまり良い気持ちはしないのです。やっぱり肉体で働いたほうがよいです。霊界で働くのはずっと後の遅いほうがよいわけです。これは信者未信者にかかわらず、最近ずいぶん死ぬ人があるのです。私などもハッと思うようなことがあるのです。しかしまだまだ序の口です。今年の節分過ぎあたりから序の口に入るというような時期になるわけです。それで最初は信者の人が多いですが、それからだんだん一般の人に及ぼすようになってきます。霊眼で見る人がよく言いますが、いま霊界は死人の山なのです。そうなって初めて私の唱える医学の根本が分かるわけです。そうなると病気は救世教の浄霊より他に駄目だということが分かって、一遍に信者が増えるわけです。天手古舞<てんてこまい>をする時期が来るわけです。それは一度に来るわけではないので、だんだんにそうなってきます。ちょうど今年の農村の凶作みたいなもので、なにしろ神様は自由自在ですからして、それには助けるほうの準備が必要ですから、いままで救世教がだんだん発展し、それから信者さんたちができつつあるということは、つまり準備時代というわけです。ですから準備時代があらかた<ヽヽヽヽ>になると、今度は全般的浄化作用が起こるということになります。こうなると実に悲喜<ひき>こもごも来たると言いますか、それに苦しみ倒れる人は実に気の毒な悲しむべき人です。観音様のお名前の中に大悲菩薩というのがありますが、その時のお働きは大悲菩薩です。けれども神様は悲しむだけではないので、それを救わなければならない。その救うその時が大慈菩薩です。ですから大慈大悲ということは反対の言葉が並んでいますが、そういう意味なのです。そういう時期がだいぶ近寄ってきたのです。ですからそれには、大いに救う……方法は浄霊に決まってますが、知識というものを大いに深めなければならないのです。そろそろ始まってきつつあるのは頭です。他人もそうですが、自分も頸のまわりと頭をよく調べて、できるだけこれを溶かさなければならないです。私でさえずいぶんありますから、毎日のように溶かしてます。これを溶かしたり体のほうぼうをやると、実に私などは薬毒があるので、驚くほどです。だからどんな人でも、とうてい想像もつかないくらいあると見なければならないです。「もうオレはかなり浄化されたから、よほど減っただろう」と思うと大違いで、むしろこれからです。それでいて私などはいままでに浄霊や修行やいろんなことで、ずいぶん減っているのです。減っているということは、ふつうの人と比べるとよく分かるのです。体力や精力が強いのです。それからまた頭も良いのです。そこにもっていくと、いまの若い人というのはかわいそうなくらいなものです。山などに若い人と一緒に行くときには、私が加減しているのです。その歩き方が遅いのです。ですから私のほうでなるだけ加減してやっているのです。「明主様はお早いですね」と言うから「年が違うよ」と言うのです。それからまた頭の悪いこと夥<おびただ>しいのです。実に悪いです。私がこのごろ若い人に言っていることは「巾着切のまねをしろ」と言うのです。「とにかく巾着切というのは偉い、君たちよりずっと偉い。強盗や窃盗はいけないが……」これは不可抗力的にやってきますが、巾着切はこっちが用心すれば盗られることはないので、こっちが間抜けだから盗られるのです。だから「ある点において大いに見習うべきだ」と言うのです。ですから巾着切のように頭の敏捷さです。人込みの中で人の懐を狙って盗るという、その鋭い感覚というのは大いに学ぶところがあります。ですから巾着切と詐欺師はふつうの人よりか、ある程度傑出したところがあります。詐欺師というのは、ぜんぜんの拵え事を本当のように思わせるのですが、それにある程度知識階級とか金のあるような者を瞞<だま>してやるのです。ですから、手段としては……目的が悪いのです。それを良い目的にすればたいへんな役になるのです。ですから巾着切の頭で病人を見たら「この人はどこがいけない」「どういう所が悪い」ということが分かるわけです。そういうようなわけで、人間の信仰としても、いままでのような信仰の考え方とは、ほとんど反対なことがあるくらいです。だから私は若い人に言うのは「君たちはまだ徳川時代から、中にはまだ平安朝時代の……」実にのろいのと間が抜けています。若い人が次々とずいぶん手伝いに来たりしてますが、みんなそうです。実に悠長な、少なくとも二〇世紀の人間とは思えないです。特に信者になるとよけいそういう点があるようです。神様にお任せしているからよいというような点があります。これは神様にお任せするというよりか、むしろ神様に責任を負わせるという、つまりあんまりダッコしすぎるというきらい<ヽヽヽ>があるのです。大いに努力して神様にできるだけお手数をかけないようにするのが本当だが、そういうことなく、赤ん坊が親に養育されるような生温い考えが、信者というのは起きやすいのです。そこに難しい点があるのと、また言うに言われないおもしろさがあるのです。そこで人力……自力と他力の線をうまくやってゆくという、それが一つの覚りであり、修行です。
(御講話おわり)
「『御教え集』三十号、岡田茂吉全集講話篇第十二巻p159~161」 昭和29年01月25日