まだ少し書き足りないところがあるのです。いまのは経<たて>だけを書いたのですが、緯<よこ>の段階が肝腎なのです。その緯の段階の、つまり上から下まで何階にもなっている、そこがそのまま写るのですから、始終うまくゆかない、苦しみや災難があるということは、そういう段階に霊がいるわけなのです。だからいくら人間が工夫をしてうまくやろうと思って一生懸命にやっても、そうはゆかないのです。ようやく金を溜めたと思ってヤレヤレと思っていると、どうしても出さなければならないことが次から次へと起こってくるのです。病気については、信者には問題にならないが、世間一般の人はたいてい、やっと貯蓄ができてまず金の心配はないということになると、必ず病気の心配が起こるのです。そうしてヤレ入院だ、手術だ、と言って、おそらく溜めた金は残らずふい<ヽヽ>になって、それでも足りないで借金するというようなことはずいぶん多いです。というのは、つまり霊層界の地位が地獄にいるから、どうしても地獄のとおりに写ってくるわけです。だからいろんな、方位が良いとか、あるいは十二支で、午<うま>の年の午の月とか、未<ひつじ>の月とか、そういうことを気にしたり、方位方角をやっても、決してうまくいったことはないです。むしろそういうことを始終気にしている人のほうが、運が悪いくらいなものです。その運が悪いというのは、そこにわけがあるのです。そういうことを気にかける人は霊が弱いのです。つまり霊の力が弱いからして、あらゆるものに怯<おび>えるのです。それで霊の強い弱いということは、肉体の健康の強い弱いのと同じことなのです。だから非常に臆病な人や、物に怯えるような人は霊が弱いのです。つまりどうせ悪いことをする人は悪のほうですから、それに負けるわけです。そういうようなわけで、自分の魂を霊層界の高い所におくようにすれば、またそこは良いことばかりが来る世界です。人間という奴は、悪いことというものは重なって来るものなのです。私などもずいぶん経験がありますが、なにか災難とか苦しみが来るときは必ず健康が悪いです。これはだれに聞いてみてもたいていそうです。やっぱり健康でいるときには運勢ということも良いわけです。だから信仰に入って浄霊を受けさえすれば、みんな運が良くなります。間<ま>が良くなります。よくお蔭話にありますが、ずいぶん金に苦しんだのが、入信してから急に思いもしない金が入ってきたり、楽になるということは、つまり霊層界が上がるからです。それで、それは神様の光をいただきますから、そこで霊が浄まるから、そこでいま読んだように霊が軽くなるから上に上がるのです。そこは貧乏や金に苦しむところがない世界ですから、そこのところは、はなはだ微妙な問題でいて、一番確実な方法です。これさえ守り、これさえ信じていれば、運の悪くなる気づかいはないです。ただ一時は、霊の曇りを取られるために一時的苦しみはありますが、それは決して長いものではないので、それさえすめば必ず良くなるのです。信仰の妙諦<みょうてい>というものはそこにあるのです。ところがいままでの宗教は、そういうことは説かなかったのです。ということは、光がなかったのです。あっても月の光で薄いから、そう著しく曇りを減らすことはできないのです。だからして運勢も、良いことがあるが悪いこともあるというわけで、年中苦労しているのです。それで、月の神様ということを言いますが、月の光というものは薄いのですが、それ以外に、月というものは暗<やみ>ということがあるのです。そこで月の光だけをいただいて、まず運が良くても、必ず暗があるから、そのときにやられてしまうわけです。だからいままでの世界では本当に運が良くなり、永遠に栄えるということは絶対にできなかったわけです。それは歴史を見ても分かるとおり、無論天下が長く続かず、それからまた何代もうまくゆくという家はなかったです。そこでどうしても太陽の光でなければ駄目なのです。太陽の光は毎日必ず出るのですから、太陽に暗はないのだから、悪いことが幾日も続くということはないのです。そういうようなわけで、どうしても太陽の光でなかったならば本当の幸福は得られないわけです。一時的しか得られないわけです。それから運ばかりでなく、すべてがそうです。だからいままでのことはみんな一時的で、続かないのです。ちょうど病気を薬や医者でやると一時は良くなりますが、必ず元通り再発するわけです。なにもかにもそうなっているわけです。つまり永遠性がなかったわけです。運の話はそのくらいにしておきます。
ちょっとおもしろい話で、神様に関したことですが、これは私のいままでの本にもありますが、これもちょっと書き方を変えて、いくらか新しいところがあります。
(御論文「神様と私との関係」朗読)〔「著述篇」第一二巻二二三ー二二五頁〕
(次節に続く)