ついこの間、例のエリス・グリリというアメリカの新聞記者の人が、東京都内の主な新聞の記者を呼んで、私の宣伝をしたわけです。それを聞きましたが、だいぶ痛快なことを言ってます。「君らは救世教の岡田茂吉というのを知っているか」「知っています」……ところでこの人は四年前に日本に来て、東京に土地を買って家を建てて、畳住まいで、日本人と同じ生活をしているのですが、日本がとても好きで、一生を日本で暮らすつもりでいるのです……。「四年前から日本に来て、日本人の偉いという人にみんな会ってみたが、岡田茂吉というこの人より偉いというのはいないではないか」と言うと、「あの人は偉いところもあるが、欠点もある」と言うのです。たぶん先年の裁判事件らしいのです。執行猶予中で……「どうもその点は」と言うと、グリリさんは「そんなことがなんだ。あの人のやっている仕事を見たら、そんなことより一〇〇倍も国家社会のためになることをしているではないか。君らはなぜそれを大いに書かないのだ」と言うと、返事ができなくてヘドモドしていたそうです。いまの、欠点があると言ったのは『朝日新聞』の記者だそうですが、はなはだ痛快な話です。「岡田という人のやっている仕事を知っているか」と言うと、「本当には知らない」「それは病気、貧乏、争いをなくして世界の地上天国を造るというのだから、これほど平和的に偉大なる仕事はないではないか。それは世界にもまだないかもしれない。それを日本にいながら、新聞記者がそういうことを知らないということは、君らはそれでよいのか」と、さんざん言われたそうです。それでグリリさんの言うことには「私はあの人の建設という仕事を見て、あとは二、三時間会って話をしただけで、実によく分かる。それを君らは日本にいて、新聞記者でいて分からないというのは、それでよいのか」と、ずいぶんやられたそうです。その通訳をした人は、始終私の所に来る浮世絵専門の人で、英語がなかなかできるので、一週間に一回ずつ外国人に対して浮世絵の講義をしているのです。
それから放送局の古垣氏もよくやられているようですが、今度来るそうです。それから丹羽文雄氏ですか、前に小説の『蛇と鳩』を書いて新宗教を……。ここで映画でもやりましたが、かなり救世教を目標にしたらしいのですが、私のほうで抗議を言ったので、それであのときには立正佼成会を中心にして「南無妙法蓮華経」をやっていて、救世教のほうは一場面出したくらいです。それからずっと『栄光』を配ってます。今度来るとか言ってました。そういうようなわけで、どうしても分からなければならないように追いつめられつつあります。なんとしても熱海の地上天国ができあがることと、自然栽培が国家的の問題になるということになって初めて「ではやっぱりそうだ、じっとしてはいられない。大いに救世教を、岡田茂吉という人間を研究しなければならない」ということになるわけですが、それまでにはまだ一、二年の暇がいるでしょう。それもだんだんそういうようになりつつあるのは、たいへん結構と思います。もっとも予定通りになるわけですから、それでよいのですが、なにしろ救世教というものは、どっちかと言うとあんまりすばらしすぎるのです。そこで分かりにくいのです。というのは、アメリカの人などはかえって早く分かるのです。というのは、目が大きいからです。日本人は目玉が小さいから大きい物は見えないのです。それについて書いてみました。
(御論文「再びジャーナリストの考慮を望む」朗読)〔「著述篇」第一二巻二一七ー二二一頁〕
これを読んだらいささか痛いだろうと思います。いま話したアメリカの新聞記者の見方に対して日本の新聞記者の貧困さは、実際あきれるほどです。日本の新聞記者というものは、まだ封建の殻から抜けきれないのです。指導者たるジャーナリストがまだそういうような封建的頭脳があるから、日本の政治でも社会でも実にはっきりしないのです。現在一番悩んでいる国家経済にしても、実に危機を叫ばれているくらいなのです。いま日本で一番肝腎なことは、もっと国民の目の玉が大きくなることです。あんまり小さなことばかりに囚<とら>われているのです。政治界などを見ても、あんまり小さな問題をコセコセしすぎるのです。政治の争いにしろ、特に社会党などはそうです。問題の良いとか悪いということは、とうにそっちのけになっていて、ただ自分の言い出したことは、是が非でも良いように思わせようとするのです。一番滑稽なのは再軍備問題です。もうここまで来て再軍備に反対したところで成功するわけがないのです。国際情勢から見て、アメリカは日本のある程度の軍備を要求するし、それから日本の国家としても、これだけの舞台で兵隊がないという国は世界中にないです。この間のアメリカの副大統領の話にも、台湾でさえ……蒋介石は別の意味がありますが……その軍備は、日本が今度軍備するよりも、とうてい追いつかないほどできつつあるのです。そういうことにしろ、世界中見まわしたところ、社会党の言うような、軍備なしですむわけがないのです。それでいて、いまもって一つになることを、御苦労様にほうぼう講演したり、鈴木茂三郎などが怒鳴ってますが、哀れなくらい低級です。それをまた新聞などがまじめに書いてます。これは書かなくてもよいのです。書いてもなんにもならないのです。あたかも、バスに乗り損なって、バスがドンドン向こうに進んでいるのに、まだ追いかけているようなもので、追いつくわけはないです。その判断がつかないのですから、不思議と言いますか、あまりに日本の社会が低級すぎるのです。それもこれもジャーナリストの頭がいま読んだような具合だからです。私はよく、共産主義のことについても、解決にどうすればよいかと言うから、わけはないと言うのです。「新聞記者を選<よ>り分けて共産主義でない新聞記者にし、それから学校の教師も共産主義者でなくすれば、それが一番だ。それさえやれば共産主義などは心配したり恐れたりすることはない」と言います。昨日の新聞かラジオでも、小学校の級の生徒が同盟して休校しましたが、それは教師が共産主義で、共産主義を生徒に吹き込むので、それに対して生徒が同盟して……というのですからおもしろいです。そういうように子供からそういう教育をしようというのです。だいたい日本の先生がどうして共産かぶれになるかというと、これも分かりきったことで、その因<もと>は大学教育です。では大学教育がなぜそういうことをするかというと、先生が一生懸命にやって出世したところでしれたもので、大学総長などにはなれるわけがないので、教授としてもちょっと上位になるくらいなもので、つまらないものです。それよりか、日本を共産主義にすれば、少なくとも知事や、あわよくば国務大臣ぐらいにはなれるでしょうから、そこで日本を転覆して、自分が良い地位につきたいというのです。ですから日本を良くするという、そういうことはなにもないので、自己の利益から共産主義にしたほうが有利だという算盤<そろばん>から割り出しているのです。だから学校の共産主義者というのは、国家を転覆して、多くの犠牲などはなんでもないので、自分が良くなればよいという、それだけの考えです。社会党などもそうです。鈴木茂三郎というのは、日本を共産主義国家にして、総理大臣になりたい。そうしてソ連のマレンコフや中共の毛沢東のようになりたいというそれだけのことです。そのために血を流している国民こそかわいそうなものです。それがだんだん露骨になって、以前は学理上でやってきましたが、それではまだるっこいので、できるだけ直接行動をしようというのでやっているのです。だいぶその直接行動が現われかけてきました。この話はそのくらいにしておきます。
それから幸福に対しては前に書いたことがありますが、もっと徹底して書いたほうが良いと思って書きました。これは信者の人はよく知ってますが、未信者に対して幸福の方法を分からせるために、できるだけ分かりやすく書きました。
(御論文「幸運の秘訣」朗読)〔「著述篇」第一二巻二〇六ー二〇九頁〕
いま読んだとおり、運が良くなる、思うようになるということは、理屈を知ってみれば非常に簡単な話なのです。ここを自分が知るとともに話してやればよいのです。ところがそういう肝腎なことをやらないで、ただ人為的にうまくゆくように一生懸命やるのだからして、結局なんにもならないので、無駄をやっているわけです。それで、一八〇段という層になっているのですから、その層の居所によって運が良い悪いになるのです。この層の良い所は良いことばかりが流れているのです。そこのところは神様は実にうまく作ってあります。低い所は悪いことだらけなのです。悪いことが満ちているのです。上層になるとそれがだんだん少なくなり、今度は良いことに変わってくるということになっているのです。そういうようで、人間はどこかにいるのですから、良いほうにいるようにすれば、そこに行けば運が良くなるに決まっているのですから、なんでもないです。よく方角が悪いとか良い家が見つからないとか、いろいろなことがありますが、それは霊界の居所が下ならどんなに良い家に住まおうと思っても、そこの世界には良い家がないのだから見つかるわけがないです。霊界の層が上に行っていれば、今度は、探さなくても見つかるようになります。そこに住まわなければならないことになっているのです。それが運命です。ですから、よく支部を作っても発展しないとか、どうも信者ができそうでできないということは、自分の魂の居所、霊の居所が低いためです。それからまた、どうも自分は一生懸命に信仰しているが、親父は反対ばかりしている、あるいは伜<せがれ>がぜんぜん分からないということは、自分自身の霊的位置がまだ低いからです。それで自分自身の霊的地位が高ければ、他の者もどうしてもそこの所に引き上げられるのです。というのは、親父でも伜でも、みんな霊線が繋がってますから、親なら親の枝ですから、親がずっと上に上がると伜もそれについてゆくわけです。そうすると話をしてもよく分かるわけです。ところが自分自身の地位が低いからして、いくら口を酸っぱくしようと、気をももうと、あえて効果がないわけです。ですからそれには自分の霊的位置が向上するということが必要です。それには、一人でも多くの人を助けて、神様の御用をすることで、それによって自分の曇りが減って、そうすると霊が軽くなるから上に行く。上に行くから、他の枝でも縁のある人でも、自然にそれについてくるわけです。だからすべて思うように良くなるというわけですから、結局において自分にあるのです。それからまた、こんなにしても自分は苦しいことや災難がいろいろあるということは、それはまだ霊に重い点があるからして、神様が軽くしてくださるために、軽くするには人を救うか、もし救い方が足りなければ自分が苦しむかで、このどっちかで曇りが取れるのですから、その点さえ分かれば、世の中は決して難しくもなんでもないものです。結局、いっさいは浄化作用です。それで浄化作用とは一つの掃除ですから、ゴミがあると、どうしても掃除されなければならないことになっているのです。稲の虫害というものも浄化作用です。硫安<りゅうあん>をかけたり糞をかけたり、肥料を入れたりするから、そういう物を浄化させなければならないので、その浄化させる役目というのが小さい虫です。それで虫が生まれて毒を食うわけです。ズイ虫にしても、ズイを食うということは、ズイに肥毒があるからして、それを掃除しなければならない。そうするとその毒を食うが、毒が葉や茎に深くくっついているから、ついどうも葉や茎まで食わなければ追いつかないから食うのですが、それが虫害なのです。だから分かりきった話です。それで結核だとか、いろんな病気の黴菌というものも、そこに薬毒があるから薬毒を掃除しなければならない。その掃除夫です。私の古い本に書いてありますが、その掃除夫が自然発生して、それが食ってゆくわけです。結局あらゆるものが浄化作用だから、そういった汚れ、穢いものを溜めないように、入れないようにして、きれいにするというようにすれば、必要がないから虫もわかないし、なにも悪いことはないわけです。だから浄化作用というものはいっさいにあるのです。これを大乗的に言うと、もっとおもしろい浄化作用があります。仮に、火事で焼けるのは無論そうですが、泥坊に盗られるとか詐欺師に引っ掛かって瞞<だま>されるとか、それから最近の問題の保全経済会とか、いろんな貯蓄で損をする人がたくさんありますが、これはやっぱり浄化作用です。その人の持っている金の中に非常に汚い金があるのです。そういう金はどうしてもその人が持つことができないので逃げてしまうわけです。こっちにそういった汚い金があるからして、だれかがなにかの手段でその人から取るという、一つの浄化作用によってそうなるのです。だからああいったものも、そういった一つの浄化機関になっているわけです。そうすると、そういうものも必要ということになりますが、これは必要不必要ということでなく、すべて汚いものはきれいにするというように、神様がこの世界を造られたのです。だからそれを本当に分かるということは大乗的見方なのです。ところがこれはあんまり私が話をしないというのは、その話をすると泥坊も必要だということになります。間違えますから、こういうことは腹の中で覚ることです。
(御講話おわり)