それからもう一つは、熱海の地上天国はみんな見たでしょうが、まだホンの半分にも行ってません。それでいてあれだけを見てみんなびっくりしてますが、これができあがったら、まだまだいま想像もつかないほどの立派なものができます。いま美術館のまわりの道をつけたり、土をいろいろいじってますが、美術館のまわりなどは、それは想像もつかないほどすばらしいことになるつもりです。話ではちょっと分からないくらいなものです。「なるほど、天国とはこんなものか」というようになります。会館や展望台のほうは、すばらしいながらも、まだそれほどではないのですが、美術館のまわりのできあがりは、「なるほど天国というものはこういうものか」と天国の気分がずいぶんすばらしいものです。それを眺めれば、それこそ、天国の鳥と言われる迦陵頻伽<かりょうびんが>が飛んで来るかと思うような感じが出るつもりです。それは来年いっぱいにできましょう。この評判は、日本は無論ですが、世界的に外国にもずいぶん大きな話題になると思います。それで初めて、「救世教というものはふつうの宗教ではない、これはたいへんなものだ」ということになるし、またそうなると、医学のほうも「農業でさえこうなのだから、やっぱり医学のほうも救世教の言うのが本当ではないか」というように、そこに信じ方が出るわけです。信じられる非常に大きな刺激になると思います。つまり神様のほうは、ようやく檜舞台に一歩一歩上るという形になってくるわけです。去年も言ったとおり、昭和二十五、六、七がすんで、八年から開けるということを言いました。それから静岡事件もたいへんな意味があったので、二十五、六、七と、七ですんで、八の去年から開け出すことになって、今年、来年となって、来年できるわけですが、それから世界の檜舞台に上がるというわけです。
前にも言ったとおり、箱根は霊的で熱海は体的ですから、熱海の地上天国ができれば、要するに体的に発展するわけです。だから本当に目立つわけです。いよいよおもしろい張り合いのある時期に入ってきたわけです。だからして神様のほうはチャンと準備や、芝居ならプログラムができているわけです。そのとおりに、少しも違わないでチャンとゆくのです。ただ時期だけのものです。大本教のお筆先に「時節ほど有難い、恐ろしいものはないぞよ」「この事が分り出したら、世界は唸るぞよ」というのがありますが、もうそこの直前に来たわけです。それから「こんなものがあんなものになり、あんなものがこんなものになる仕組であるぞよ」というのがありますが、お筆先というのは実に簡単な言葉で、すばらしい大きなことを言い尽くしてあります。私などもその当時は本当には分からなかったのですが、神様というものは、なんだか変な言い方だと思ってましたが、いまになってみると、それがピッタリと当たっているのです。「何事も神の言うとおりに致せば間違いはないぞよ」というのがあるのです。自然農法にしても、私の言うとおりにした人は、チャンと予定どおりに進んでゆくのです。効果もあるのです。ところが農民は長い間の習慣でなかなか言うことをきかないのです。なにしろいまもって有肥をやっている人がそうとうあるのですから……。ようやく今年あたりから気がついて、「では切り替えよう」ということになった人がずいぶんあるようです。それについてこういう話があります。大本教の教祖様が神様から「直<なお>よ、お前はこれから外国に行くんだよ。直ぐ外国に行きなさい」と言うので、教祖様は「私にはそんな金も何もないのに外国に行けないでしょう」と言うと、「なにいいんだよ、五円持って行けばいいんだよ」というので、教祖様は五円札を持ってノコノコ出掛けたのです。そうすると途中まで行くと「直や、もう行かんでもよいぞよ」と言うので、「神様はどうして御からかい<ヽヽヽヽ>になるのです」と聞くと、「いや、お前がどのくらいワシの言うことをきくか試してみたのだ。だから、もうこれで分かったからいいんだよ」というわけで、神様が試されたわけです。そのくらいに素直に言うことを聞くということです。お筆先に「何事も神の申す事に間違いはないから、素直が一等であるぞよ」とありますが、そういうようで、いつも言うとおり、私がなんでもなく言ったことでもたいへん意味があることですから、そのとおりにやれば決して間違いはないのです。今度の無肥料栽培も、最初はテンデ耳に入らなかったです。それこそ「明主様は病気を治すことはなるほどたしかに大丈夫ですが、農業のことはそれほどのことがあるわけがない」と思ったらしいのですが、これは時節のことだから、いくら言っても分かるわけがないので、しようがないのですが、そういうようで、ようやく思うとおりの実績が上がってきたわけで、非常に結構です。
(御講話おわり)