そういうわけで、無機物にも意思、感情があるということを知ることがやはり必要なのです。たとえてみれば、木が枯れるとか草が枯れるということなども、人間がそういうことを知らないからして、非常に冷たくされているわけです。そこで勢いがなくなってしまうというわけです。街路樹というのは見ても実際おもしろくもない、魅力がないです。ところが庭の木とか、そういうことの好きな主人公で、始終それを楽しんだりしていると、植物のほうも張り合いがあるから、大いによく見せるというわけですから、まるっきり違うのです。私の所に来る人は、庭の木でも活花<いけばな>でも非常に褒めます。よそと違うのです。というのは、私が始終見てそれを楽しんだり愛したりしてますから、そこで植物のほうでも張り合いがあるから大いによく見せるというわけです。実に不思議なのは、花を活<い>けて、ちょっと気に入らない所があって、忙しくてそのままにしておくと、明くる日になると枝ぶりが良くなって変わっているのです。ですから私は生きていると言うのです。木でも、枝を切ったり横向きに植えたり裏返したりしておくと、人間に見えるほうの枝がだんだん伸びてきて形良くなるものです。実に不思議です。それで木などを注意して見ると、人間の見るほうがだんだん良くなるのです。そうして見えないほうは悪くなります。ですから人間に良く見せようということを思っているということが分かります。そういうようで、どんな物にでも霊がありますから、霊がある以上は人間の扱い方や見方や愛し方によって違うということを知っておくと、すべてにたいへんよいです。それでは植物とかそういう物だけかというと、こういう物(器物)もそうです。これは本当の無機物ですが、こういう物でも始終愛すると違ってくるのです。だから、古い骨董品などが良いということはそういうわけで、古い物ほど多くの人が見て楽しむというために味わいが出てくるのです。古い茶碗などは、ほとんど言いようがないほど、おもしろみや味わいがあるのです。それは人間の霊がたくさん入っているからです。ですから新しい物で良い物があっても味わいがないということは、その点にあるのです。まして農作物というような物とか、花を人間が見て楽しむという物は、人間次第でたいへんな違いです。そういう物に糞をかけたりするのは良いわけがないです。根本はそこにあるのですから、さっき言ったとおり、火、水、土の霊気が溶けて、そうしてそれが、一つの、見えざる力とも言うし、Ⅹと書きましたが、名のつけようのない、それがあらゆる物の基<もと>になるのですから、肥料というのはそれです。土というのは物質なのですが、その土の中に三位一体のコントロールされた霊気が満ちて、そしてその霊気は濃くなったり薄くなったりするのですが、穢さないで、人間が愛すと濃くなってくるのです。それが肥料なのです。ですから肥料というのは目に見えないものですから、科学がいくら研究しても分からないのです。かえって科学は邪魔をするから駄目になるのです。そういうような意味が根本ですから、それを農民にだんだん教えるのです。教えるよりか、実際に良くできれば「不思議だ、どういうわけだろう」ということになってから、その理屈を言えばすぐ分かります。さもなければ、なかなか簡単には分かりません。
(御講話おわり)