時間がありますから、地上天国について少し話をします。いままでできただけはいくども見られたでしょうが、まだこれから、秋には会館と水晶殿<すいしょうでん>ができます。美術館のほうは来年になるつもりです。ですからまだ非常に変わります。変わるということは、まだまだウンと良くなります。それに美術館もようやく設計ができました。と言っても頭の中にできたのです。これは箱根の美術館とはまたぜんぜん違っているのです。様式も周囲の具合もすばらしいものです。今度の熱海の美術館ができると、箱根の美術館はバラックぐらいに見えるようになります。これを見たら、アメリカの人も驚くだろうと思います。とにかくそういうような具合で、全部できあがったら一大驚異で、大いに問題になると思います。それも、日本ばかりでなく世界的問題になると思います。外国でも、写真入りで大いに紹介するだろうと思います。そうすると、とりあえず、日本の人口の三分の一はぜひ来なければならないようなことになります。去年の日光見物人の統計が出てましたが、年間二四〇万人です。ですから今度の熱海の地上天国がだんだん知れるに従って、一年間にその半分は大丈夫ですから、一〇〇万以上は必ず来ます。この間もアメリカの新聞記者が言ったとおり、西では京都、奈良、東では箱根、熱海が、まず日本の見るべき文化財だということになります。ですから外人もたいへんなものです。二、三日前に、去年の外客の統計なども出ており、今後の見込みということも出てましたが、年々増えつつあるのです。いまのところはいくらでもありませんが、いまに熱海の地上天国を見物したいというそれが主な目的で来る外客もずいぶんあるようになると思います。それほど期待を持ってよいと思います。そうなると「救世教というものはいったいなんだ」「ずいぶんすばらしいものだ」ということになります。そしてまたこれができると、無論美術館に陳列すべき物もだいたい用意してありますが、これは開館になるまで、できるだけ秘密にしておくつもりです。そうして一遍にパッと見せたほうが値打ちがありますから……。すばらしい美術館ができるわけです。そこで、そんな美術品などが集まるのは、人間的に考えれば実に不思議です。しかし神様がそういうふうにやっているのですから、私は別になにも心配もしてないし、あんまり手数もかからないのです。ひとりでに来るようなものです。その一例として、今年の三月に三越で、浮世絵展覧会をやりますが、これは私のほうが一手<いって>でやるのです。これは毎日新聞社の企画ですから、毎日新聞社が大いに骨折るわけです。私は肉筆を主にして集めました。世の中は外国の影響によって版画が浮世絵のように思って、肉筆というものに関心を持たなかったのです。そこで良い物が割合に安く入りました。そうすると時期が来て、美術館の別館を計画したころから、約半年ぐらいでバタバタと集まってしまったのです。面喰うぐらいに集まってしまったのです。ところが集まってしまってから、博物館の人も、そのほうの専門家も、日本一だというのです。ふつうでは浮世絵を日本一と言われるぐらいに集めるというのは、何年、何十年かかるか分からないのですが、それがわずかの年で集まるということは、実に神様がやられているということが分かります。そういうわけで、神様の腕前と言うか、それは実にすばらしいものです。それに、そのスピードたるや、実際私がやっていながら、ウカウカやっていても、それを振り返ってみて、あんまり早いので驚きます。なにしろ熱海の地上天国が完成すれば、これは世界的に有名なイタリアのヴァチカンとかフランスのルーヴル美術館と匹敵することになります。それで、アメリカにはそういったものは問題にするものがないのです。二、三日前に、湯川博士とだれかの対談が『時事新報』にでてましたが、それによると、湯川博士の話では、アメリカは文化財的には見るものはぜんぜんない。要するに機械文明ですから、ただ大きな家とか、そういうものはすばらしいが、美術的に観賞するというものはほとんどないそうです。そういうことになるとやはりヨーロッパです。ヨーロッパとすると、まずローマのヴァチカン、フランスのルーヴルとになり、支那では、古くて汚れてしまってはいるが北京の紫禁城でしょう。そのくらいなものでしょう。それらに匹敵することができるのは熱海の地上天国です。そうすると、私のほうはできるのに一〇年です。工事にかかったのが終戦の明くる年ですから、二一年からとしても、三一年で丸一〇年ですから、再来年で一〇年です。そうすると、他は全部何百年……一〇〇〇年近いです。しかも大勢の人がかかったのです。当時の主権者、王様とか、金持ちという者がやったのです。ところがこっちは、私一人の力です。それも、別に日本銀行の大株主に叔父さんがあるわけではなく、なんの金力の後援もありません。なにしろ一九年に箱根に神山荘を買ったときには金が六万円しかなく、後はなにもなかったのです。それがわずか一〇年の間にこれだけのものができてしまったのです。とは言っても、私がやったのではなくて、神様がやったので、私は番頭でお指図どおりにやったのですが、その早さというものは驚くべきものです。
「『御教え集』三十号、岡田茂吉全集講話篇第十二巻p125~128」 昭和29年01月05日