昭和二十八年十二月二十七日(2)

▽前節から続く▽

 メシヤ会館をいま建築している椎野という人に、事務所の酒見という人が聞いたことでおもしろいことがあるので読ませます。

(対談「メシヤ会館現場事務所へ「椎野氏を訪ねて」」朗読)

 これについて思い出すのは法隆寺の五重の塔ですが、この寸法やそういうものがよくできているので専門家のほうの驚異になっているのです。私は去年の春に京都に行ったときに、五重の塔を一番よく見ましたが、まったくよくできているのです。その高さといい、形といい、どこからどこまで申し分ないのです。これは聖徳太子が造ったのですが、聖徳太子は私と同じょうに、ちょっと目で見計らって「こうしろ、ああしろ」と指図したに違いないのです。そのときには専門的の機械やそういうものがないのですから、目分量でやったに違いないです。だから私のやるやり方とだいたい同じわけです。というのは、聖徳太子というのは私が生まれたわけなのです。それで、一二〇〇年前に生まれて仏教を弘めるということについて、まず一番肝腎なのは、御説教やそういうことでは手緩《てぬる》いので、大衆を教化するということにはまだるっこいのですから、それにはああいった建物とかいろいろな設備で、まず注目を引いて、そこに見物に行くとかお参りに行くということで、知らず知らず仏教なら仏教に心が向くようにする、それが一番効果があるわけです。お釈迦さんもそのやり口をしたわけです。七堂伽藍《しちどうがらん》などを造ったのはそういうわけです。ところがお釈迦さんも聖徳太子も、出が皇太子ですから、すべてにいろいろな便宜があるわけです。勿論金もそうですし、それだけの格がありますから……。ところが私は素寒貧《すかんぴん》の一平民ですから、その点においては誇ってもよいと思ってます。そこで聖徳太子もだいたいお釈迦さんからヒントを得て、ああいうものをやったに違いないです。ですから法隆寺というものは七堂伽藍の形なのです。そうして、夢殿《ゆめどの》に救世《くせ》観音というのがありますが、これは一年に一度開くということになってますが、あそこの位置が聖徳太子の住まわれた居間に当たるのだそうです。それを記念に建てたわけです。それで「救世観音」というのは「救世《きゆうせい》観音」と書くのですから、やっぱり「メシヤ観音」というわけです。だからして私がいまやりつつあることは、聖徳太子が世界的になったようなものです。救世教を開くについて、まず地上天国を造るが、いまのところは日本です。この間も言ったとおり、西が京都、奈良であって、これは根本は仏教的のもので、仏教で言えば極楽浄土の形を造ったわけです。今度は私は、東の箱根、熱海という、ごく良い位置を選定して造ったのですから、西の極楽浄土に対して東の地上天国ということになったわけです。仏教の根本は阿弥陀さんですから、阿弥陀さんは西のほうで、西方浄土です。東のほうは「東方観世音菩薩」と言って観音様になるわけです。そこで最初は観音教団で出発したのです。そうして東に極楽浄土を造らなければならないが、もう仏教の時代は過ぎて、今度は世界的にメシヤの時代になったから、すべてのそういった様式も世界的に造ったわけです。そういうふうに見てくると、できるべきときにできたので、別に私がそういうつもりでやったわけでもなく、自然に神様からやらされたわけです。だからなんでもかんでも、何万年何十万年も前から準備したということがよく分かります。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十九号、19540115、19531226、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p331~333」 昭和28年12月26日