昭和二十八年十二月十六日

十二月二十六日

 新聞でも見られたとおり、裁判は一応片づきましたから、その原因を言おうと思ってます。

 ところでこれについて神様がなぜ御守護されなかったかということになりますが、実際は神様は、これを無罪にするのは、一捻りでわけはありません。しかしわざと、そういうように考えられないほどの重い罪にするということはちょっと変に思いますが、実はそういう重い罪にしたのは神様がやっているのです。これはそういう神様のお知らせがたくさんあります。それはなにかと言うと、いま救世教に対する世の中の反感は非常なものです。その反感の一番大きいのは無神論者です。ジャーナリスト、インテリとかです。「あの畜生、終戦後の混乱に便乗してああいった巧妙な新しいものをデッチあげて、信者を瞞してうんと金を巻き上げて贅沢をして、たいへんな収入だ、実に癪が障る」という反感が霊的にたいへんなものです。その霊が非常に邪魔するのです。それからまた各宗教です。新宗教もそうですが、「オレのほうの信者がいつの間にか救世教の信者になってしまった。昨今できたインチキみたいな宗教がハバって、癪に障る」と。それからお医者さんでも「あそこはいいお得意だった、いい病家だったがいつの間にか来なくなった。聞いてみると救世教に行ったという。それで救世教では医者もいけないし、薬もいけないと言う」と。そういう恨みの想念がたいへんなのです。それも古い宗教ではそんなことはありませんが、急激に発展すると、そういうような反感というものは必ず起るのです。恨み、しっと、憎み、という想念が始終かかってくるのです。これはたくさんの霊です。そこでそれをできるだけ減らさなければならない。というのはそれが邪魔をするのです。そこで神様はそれを調節するため、緩和するための手段をつくらなければならない。そこで今度のような判決にすると、そういう人たちが溜飲を下げます。しかし私もああいう判決で癪にも障るし人間的には憤慨しますが、そういう心が起る一面、心の裏にはそういった憎しみを持った人たちが「ザマー見やがれ、いい気持ちだ」と思う人というのはたくさんあるから、それを考えると私もいい気持ちです。これは決して負け惜しみでもなんでもありません。それで向こうの恨みがそれだけ減りますから、結局そういう判決はありがたいとも言えるのです。ですから私はずいぶん不愉快だろうと思うでしょうが、実はあの判決でいい気持ちなのです。ここが信仰の境地とでも言いましょう。よく勝利者の悲哀ということを言いますが、物事に勝つと、それに対して負けたほうの恨みとか苦しみというものが来るから、そこでかえって気持ちが悪いのです。それでこういうときになると、かえって同情する気持ちは起るが憎しみというものは取れますから、そこでこっちもいい気持ちになるわけです。そういうように考えてくると、そういうように罪をつくったり、いろいろなことをしたことは、実は神様がいろいろな霊的の妨害をできるだけ少なくするためにやったということですから、これが無罪になったとすると、そういう連中が「無罪になって、それみたことかという面をしているだろう、癪に障る」というので、こっちの発展がかえって阻害されるくらいです。ですからこういう判決は一時的に悪い影響が来ますが、それは一時的であって、発展の上においては決してマイナスではなくプラスになります。そういうことでも神様がやっているということがよく分かります。神様は絶対力ですから、無罪にするというのは、なんでもありません。だからこの裁判というのは、妙にまずく行くのです。ほかのことは、なんでもよく行くのですが、この裁判に限って、どうもおかしいようにもっていくのです。それはそのはずです。神様がやっているので、神様はこっちを上手に犯罪者にするようにされたわけで、結局ありがたいと思うのが本当です。

 一つだけ論文を読ませます。

(御論文「地球は暖くなった」朗読)〔「著述篇」第一〇巻三六一―三六三頁〕

 浄霊について、指を開くと間があきますから、指をピッタリとつけてやったほうが効果が強いのです。それで指をつけると力がはいりやすいから、そこに気をつけて指をつけて力がはいらないようにしてやると、非常に効果が強いのです。それを注意しておきます。

「昭和二十八年十二月十六日」 昭和28年12月26日