昭和二十八年十二月十五日(2)

▽前節から続く▽

 かなりやっつけてありますが、無神論者を分からせるには、宗教的だとどうしても最初から毛嫌いしますから、かえって分かりにくいので、信仰を抜きにして書いてみたのです。つまり人間の上等と下等というか、そういうようなことに心が向くということは、人間としては頭脳が上等なのです。ただそういうことにぜんぜん関心を持たないで、毎日を、儲かるとか儲からないとか、思うようにゆくとかゆかないとか言って気をもんで、要するに高等な思想ということに向かないということは、それだけ魂が低いわけです。だからそういうことを考える人……哲学者とか思想家というのは、人間で言えば上等な部類に属するのです。というのは魂の位置、霊の位置なのです。なにしろ霊の地位というのは一八〇段もあるのですが、上に行くほど、つまり働きが高等なのです。そこに、真ん中の線……地平線……上下を区別している線があり、その線を抜いて上に行けばよいのです。それで、その線の上がつまり神様の分野で、線から下が獣の分野です。動物界です。そうなってますから、そこでいまの偉い人でも、無神論者は線よりか以下なのです。それで線の所まで行くが、それを抜くことができないのです。神様を知る……神様はたしかにある、というのは線を抜いたわけです。わずかなところでぜんぜん世界が違ってしまうのです。ところが線の以下ではどんな偉い人でも、智慧があっても、それは悪智慧になるのです。悪いことをするために働く智慧になってしまうのです。線を抜いて上に行けば、その人の考えること、やることがすべて本当の人間となり、つまり善だからして、まず間違いないわけです。それとともに罪を作らないからどうしても不仕合せが来ない、幸福をかち得るわけになります。その点です。ですから信仰というものは、その線を抜くことを教えるだけでなく、「なるほど、それに違いない」と信じさせることです。それが信仰の根本です。

 線を抜いてからも、やっぱりいくつにも段があるのです。ところがたいていな世間の信仰は低いのです。稲荷様とか権現様を信仰するのは、線をちょっと抜いた所です。それから何々教とか何々宗というのになると、だいぶ上になってくるのです。ところが上になったとは言っても、まだ本当の上ではないのです。線をちょっと抜いた所だからすぐに下に落ちてしまうのです。この間の霊友会というのはそうです。ふだんは上になっているのですが、どうかすると下に落ちてしまうから間違いをしでかすのです。そういうふうに考えると、分かりにくいことはないので、実に分かりよいです。それで線から上の段で一番高いのが救世教です。そうなると力が違ってくるのです。ではいままでそういった上の段に行かれる宗教はなぜなかったかというと、いままでの宗教は全部月《つき》の神様なのです。つまり夜の世界だったから月の神様が支配していたから、光が足りなかったのです。今度は太陽が現われたのです。ですから私のこの病気を治す力も太陽の力です。いま読んだ、水素の毒粒子を焼き尽くすという火素《かそ》は、太陽の力だからそういうことができるのです。ところがいままでは宗教でもなんでも全部月の系統です。太陽の光からみると六十分の一ですから、六十分の一の力しかなかったわけです。ところが今度はいままでよりも六十倍の力ですから、そこで信者の人でもすばらしい力を発揮するわけです。キリストでも月の神様の最高のものだから、月だけの力しかなかったわけです。私の弟子は、月の力よりも太陽の光は、わずかでも、やっぱりそれだけの働きが違うわけです。ですから奇蹟が現われるということは、そういうわけです。いままでないことがあるということは、いままでは月の力であったからで、今度は日《ひ》の力になるということに大きな違いさがあるわけです。そう考えると、救世教の奇蹟が多いことも、浄霊で病気が治るということも分かるわけです。別に難しいことはないわけです。ただ、いままで太陽のほうの神様が出なかった、出られなかったというところが根本なのです。それで、今度はその太陽が現われたのです。昼間の世界というのは、そういうわけです。

 宇宙というものは、そういうことになっているのです。すべて夜昼の区別があるように、だいたい一年、一〇年、一〇〇年、一〇〇〇年、万年というように、定期的に決まっているのです。今度昼間の世界になったのは三〇〇〇年目になるのです。実に宇宙というものは無限の神秘であって、とうてい言葉では言われないくらいなものです。それで悠久《ゆ、フきゆ、フ》のものですけれども、悠久の中にも大中小、大中小となって変化することになっているのです。今度は三〇〇〇年目で昼間になったのですが、三〇〇〇年で一回転するのです。それで三〇〇〇年というと永久と言ってもよいです。三〇〇〇年ではつまらないと言っても、自分の命よりはずっと長いのです。三〇〇〇年の間には、いくども生き代わり死に代わりしているのです。そのくらいの変化ですから、今度の変化というのは大変化であるし、祖先以来ないものです。ですからこれに生まれ合わせ、この仕事に携わった人はどんなに仕合せか、祖先以来ないのですからたいへんなものです。そういうような大変化だからして、分からせようと思っても、なかなか分かりにくいのです。しかし分かりにくいけれども、聞いてみれば、なるほどそういうことも有り得るわけだということも分かるわけです。こういう話は、哲学でもなければ宗教でもない、新しいものですが、しいて言えば宗教の哲学みたいなものです。それで、これを知ることが覚りを開くということなのですが、しかし覚りを開くというが、いままでの覚りはそこまでは分かっているのですが……それを騰げながら分かったのはキリスト、釈迦という人たちです。釈迦が「仏滅の世が来る」ということを言ったのは、ある程度分かったから言えるのです。それからキリストの 「天国は近づけり」ということも、ある程度まで分かったわけです。けれども、私が分かるだけは分からなかったわけです。もし分かれば、そのときにもっとすばらしい奇蹟……大きな力を現わさなければならないです。救世教というものは、いままでの観念でゆくと非常に難しいようですが、分かってみればかえっていままでよりもずっとよく分かるのです。それは根本が分かるからして、非常に難しいようでいて非常にやさしいのです。ちょうど病気を治すようなもので、医者のほうで首をびねってどうにもならない者が、こっちのほうでこうやって治ってしまうのですから、理屈は同じです。ただあんまり違い過ぎるので、その点に骨が折れるのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十九号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p320~323」 昭和28年12月24日