五一二月二五日
浄霊で病気がよく治るということを、初めて浄霊を受けて治った場合によく聞かれます。そこで「なるほど」と思うように説明してやらなければならないのですが、それをできるだけ分かりやすく書いてみましたが、まだ少し物足りないところがありますが、だいたいこういうわけです。
(御論文「浄霊は科学療法なり」朗読)〔「著述篇」第一二巻七-二頁〕
つまりこの不純水素の毒粒子を焼いてしまうのです。その焼く熱度というものがたいへんなものなのです。ですからここ(掌)から出る光の熱は、それこそ寒暖計では計れないほどの熱ですが、ただ熱の霊《れい》なのです。ふつうの熱いというのは熱の体《たい》なのです。熱の霊というのは、体ではないから、その熱さは感じないのです。その代わり熱としての力は非常なもので、むしろ無限と言ってもよいくらいなものです。こう説くのが科学的説明なのです。科学的と言っても機械的ではないのです。いわば霊的科学です。それで霊的科学というのは、いままで人間には経験がないからちょっと分かりにくいのですが、理屈はチャンと合っているのです。というのは、いまの医学などの科学というのは、ごく幼稚なものだから説明ができないのです。つまり病気の原因はなんだと言っても、医学では説明できないのです。それを無理にこじつけて説明してます。よく新聞や雑誌に出てますが、その苦しいのはよく分かります。こじつけだからして始終説が違ってくるのです。最初この薬は非常に効くというやつが、だんだん時がたってくると連作用が起こるとか言うのです。結核によく効くという抗生物質というのが、最初はよく効いたが、だんだんやっているうちに、体のほうにまたそれに対抗するものができるというので、かえって逆に結核菌の力が強くなる、ということを、このごろ言い出してます。そういうようで、根本が分からないから上面《うわつら》だけで、半年も効くと鬼の首でも取ったように大騒ぎをするのですが、二年たち三年たつとみんな駄目になってしまうのです。いままでの結核の特効薬というのは、みんなそうです。ですから私はいままで薬が出るたびに、いまに駄目になると言って笑うのですが、これはなんでもないことで、当然なのです。いままでは物質的説明はできるが、科学的説明はできないのです。だから科学ではないと言うのです。ところがこっちのほうを非科学と言い、自分のほうを科学と言うのですから、おおよそ逆です。いまの文化というのはそういうものです。それをいまの文化的の人がいばって言つているのですから、笑うべきものです。物事がうまくゆくはずがないのです。始終みんなアップアップやって失敗ばかりしてます。つまり救世教というのは、一つの高等教育です。つまりまだまだ大いに未開人的分子が残っているのを大いに分からせるというわけで、教育です。それには実際を見せなければ信じないから、浄霊やいろいろな奇蹟を見せて信じさせるというようにしてますが、実際を見ても信じない人がたくさんあるのですから、いかに迷信に捉《とら》われているかということが分かります。迷信者のほうが迷信でないものを見れば、やっぱり迷信と見るのです。もっとも、そういった迷信がなくてチャンと分かっていれば救世教の必要がないわけですから、救世教を世界的の立派なものにするには、そういう迷信者が大いに必要……というよりか、それが根本です。それについて、信仰に関係なく無神論をやっつけるようなふうに書いてみました。
(御論文「無神論に就いて」朗読)〔「著述薦」第一二巻一七九―一八二頁〕
▽次節に続く▽