一二月七日
最近の『ニッポン・タイムズ』という外字新聞に、箱根美術館の写真と記事が出てますが、これは、この間話したアメリカの婦人の新聞記者が書いたのです。その翻訳したのを読ませます。
(昭和二八年一一月三〇日付『ニッポン・タイムズ』紙掲載の記事朗読)
外人の見方だけに日本人と違う点があり、また日本人の持たない鋭さがあります。つまりなんにも囚《とら》われない見方が非常におもしろいと思います。そうして割合に公平な見方をしてます。それでこの人が後で通訳の人に話したのですが……通訳といっても、やっぱり信者で、浮世絵専門の、半分商人、半分研究家というところですが……その話によると、この婦人記者は専門は美術批評家ということになっていて、世界中の美術館をまわって歩いたのですが、一番自分が心を打たれたのは、ここに書いてあるフランスのルーヴル……これは有名なものです。次はイタリアのヴァチカンで……これはローマ法王のいる所です。それらの美術品などを、私は写真で見ましたが、金のかかったのは箱根美術館の何層倍か分からないです。大理石のすばらしい彫刻がいっぱいあります。それらと同じような感じを受けたのはここの箱根美術館で、この三つだと言うのです。それでわずかの間に金もかからないでできた箱根美術館が、世界的なそういう美術館と同列に見られるということは、たいしたものだと思います。それで箱根美術館が二つの美術館よりか勝《すぐ》れていることは、室内美術品を見るのと、室外に目をやれば、自然の木や石や草や苔などを人工的に造った自然美があり、もう一つ遠くを見ると山や海の本当の自然美が目に入る。つまり三段になっている。これは他の美術館にはない。だからここにいると、つまり美術館のみでなく、そういったいろいろな天然の美と人工美とがよく調和したその雰囲気というものは、実になんとも言えない魅力があると言うのです。だからずいぶんいつまでもいたそうですが、時間がきて半分で帰ったそうです。その気持ちが去り難いというわけで、これから始終来たいと言ってました。この人の主人はNHKの英語放送をやっている人なのです。それで日本に永住するつもりで、家も買って、畳で日本食といったような、日本的生活を始めたばかりの人なのです。それからもう一つ、こういうことを言っていたそうです。日本を西と東に分けると、西は京都、奈良で古美術、特に仏教美術を鑑賞する。そうすると東は、いずれ箱根、熱海ということになるに違いない。だからその点において箱根、熱海という土地を選んだということは、すばらしい慧眼《けいがん》だ。それでここは温泉があり、夏と冬両方の気候に適している。しかも交通の便利という点から言って、将来東の文化的の都市……文化都市というような意味で、非常に重要なものだということを言ったそうです。これはやっぱり私が計画していたとおりのことを見通したわけです。この点はアメリカ人というのは実に偉いと思ってます。日本の新聞記者もいままでいろいろ来ましたが、そこまで気がついている人はどうもないらしいのです。もし気がつけば新聞雑誌に書かなければならないです。あっちのほうの人は大局的に見て、そうして公平に批判するのです。これが日本のジャーナリストというのは、なんというか、小乗的で、視野が小さいのです。察するに、日本の新聞屋の人は「ナンダ、救世教も新宗教のくせにコンナ立派な物をこしらえやがって、よっぽど儲かるんだな」とか「どうも岡田というのは、新宗教のくせに金儲けがうまいんだな」とかいうように見るのです。「しかしなるほどそれにしてはすばらしい物を造った。奴もいっぽうの怪物だ」というように見るのです。ですから見方が実に小さいことと、大いに邪気があるのです。邪気紛々としているのです。これは、日本は昔からそういったように教育されて、それを伝統としてますから、しかたがないのです。ですから日本人の見方というものは、頭がもっと大きくならなければならないのです。特に宗教などの見方も、やっぱり小さいです。日本を主にしているのです。特に神道がそうですが、日本の一つの国粋的のものが非常に強いです。これは無理はないのですが、なにしろお祭りと言えば一〇〇〇年から二〇〇〇年ぐらい前の形式なのです。素焼の入れ物に生米を入れたり、水を入れたりし、浄衣《じようい》なども、麻が本当なのですが、麻は絹などがない時分の二〇〇〇年以上前の形式で、相変わらずこれを採っているのです。どうしても小さい頭にできあがっているのです。ですからいまもってその気分が大いにあるのです。それでこの間私は書きましたが、日本の封建時代には……これは日本ばかりではないですが……人をたくさん殺した者ほど英雄として崇《あが》められる。それから武士という階級は一生涯人殺しの稽古をし、その技術を錬磨する。そうして君のために命を捨てるのが偉い、一家の栄誉だとしている、ということを書きましたが、そういうようで、さっき言った見方は日本人にはどうもないらしいのです。ですから私のああいった批判などは、どっちかというとアメリカ式なのです。ですからアメリカの人とは実に話が合うのです。私は日本人でありながら、どうも日本人とは合わないのです。新聞記者などと少し話していると、私の言うことがあんまり大き過ぎたり、飛躍するので、目をキョロキョロしているのです。ところがアメリカの人とはピッタリとよく合うのです。そういうわけですから、日本人に分からせるということは非常に難しいのです。いまにアメリカの人が分かりだしたら非常に早いと思ってます。
▽次節に続く▽