(前節から続く)
この間京都に行った話で、もっとも感じた点を二つ話してみます。ちょうど正倉院の展覧会が奈良の博物館であったのでゆっくり見ました。おまけに博物館の人と、もう一人は道具屋でそういう古い物に非常に明るい人の二人がよく説明してくれたのでよかったのですが、結局正倉院の遺物というのは美術的に見てはそれほどの価値はないのです。というのは、ほとんどの品物という品物は当時の室内家具、調度品が多いのです。ですから指物師には非常に参考になりますが、絵とか彫刻、陶磁器とか、そういう物はないのです。だから美術的、芸術的の物ではないのです。ただ一〇〇〇年以上前によくもこんな巧みな物ができたというだけのものです。だからもう一度行ってみようという気はしないので、一度でたくさんです。あれを見て楽しむということもできないわけです。それともう一つは京都の有名なお寺はほとんど見ましたが、一番意外に思うのは庭です。これは他の美術と比べたらガタ落ちしているのです。今度行った三宝院<さんぽういん>の醍醐寺という有名な寺の庭で、しかも秀吉が直接指導したというのですが、まるでオモチャみたいなものです。秀吉とも言われるああいう剛腹な人が、ああいったママゴトのような庭をどうして造ったかと不思議に思えました。いかにも庭は落ちてます。どこの庭もそうです。それで竜安寺では、くだらない、そこらを探せばあるような石を恭<うやうや>しく飾って、これがなんの形だとか、いろんなことをうまく言ってますが、私は庭よりか説明の文句によほど感心しました。大徳寺の大仙院の庭では、変な石をやって、これが支那の宋<そう>時代の山水を写してあるとか、いろんなことを言ってます。これは亀、なんとか言って亀に似ているとか、いろいろ言ってましたが、子供だましみたいなものです。小堀遠州<こぼりえんしゅう>が造ったとか、真珠庵などもそうですが、私は見てもどこがよいのか分かりません。そういうような具合で、今度嵯峨<さが>の平安郷を、思いきってそういったことと逆のアッとするような物を造ろうと思ってます。外人などが来て、日本のああいう庭園を見て感心する者はおそらくないと思います。それからあとは桂離宮にしても、古い時代がついているから見られるものの、あれとてもなんの変哲<へんてつ>もない、別に見る所はありません。それから修学院<しゅがくいん>のただ大きいばかりの、庭だかなにか分からないものです。ただ他のまわりが土手になっていて、それだけのもので、頭にはなにも残りません。つまり日本人の批評眼が低いというよりも、目ができてないのです。だからなんでも、これは古いから、これはだれがこしらえた、これは昔から評判になっているから、ということで、しいて見ようとするように思えるのです。本当の批判力というのに欠けていると思うのです。だからピカソの精神病的の絵に感心したりするのです。これは批評眼がないからです。人が良いと言うから良いのだろう、新聞で褒めているから良いのだろうというわけです。ですからどこが良いのか分からないが、人が言うから良いのだろうというわけです。私などもそうで、展覧会などに行くと帰りには頭が痛くなりました。これは良いと言うから良いのだろうと、それを発見するのに苦労するのです。この日本人の頭は大いに教育する必要があります。たとえて言えば、この薬が効くとか、このオマジナイは御利益があるとか、これを拝めば良くなるというと、それを信じるのです。それで、やっても少しも良くならないのに、長くやれば良いのだろうと、二カ月三カ月とやっているが良くならない、というのがお蔭話によくあります。ですから人に奨められると、それを信じて、少しも良くならない物を効くだろうと言っているのです。ちょっとのんでみて良くない、では駄目だと捨ててしまうというように、はっきりした頭にならなければならないのです。それでアメリカから来たオシロイとか、あるいは近ごろは皮膚病によい、水と油と混った物だから良いのだという広告を見ると良いと思ってしまって、ぜんぜん批判力はないのです。ですからいま言ったように京都の庭はなんでも良い。室町時代の物だから良いとありがたがるのです。それが批判力が正しければ、室町時代だろうが、桃山時代だろうが、悪い物は悪いとし、現代物でも良い物は良いのです。そういう一つの基準を作らなければならないと思います。ですから正倉院の御物<ぎよぶつ>をいまのように言う人は、いまの日本人にはおそらくないでしょう。そういうようで、つまり正しい目を持って、良ければよい、悪ければ悪いという目を持ってやれば、正しく見れるし失敗もないのです。ところが肥料をやって不作になったり、薬をのんで多病の人間になったりするが、それに気がつかないということは、いかに正しい批判力に欠けているかということが分かります。そういう頭を養うのがもっとも肝腎であるし、救世教としてはそういう点などを大いに強調したいところなので、そういう人間を作るのが本当なのです。ところがかえってこっちのほうを迷信と言うのは、まったく見る人の批判力が欠乏しているからです。
▽次節に続く▽