十一月十五日
私はいま入れ歯をやりかけてますから、上のほうがガラガラになっているので話がなんだか洩れるようだから、今日は読むもののほうを多くしますから、そのつもりで。
平和主義と言いますが、平和主義というものの結果は、共産党のお手伝いをしているわけなのです。それについて書いたのですが、いま読ませてみます。
(御論文「平和主義を考えてみる」朗読)
〔「著述篇」第一〇巻六九九―七〇一頁〕
この間の仏教徒大会なども、なかなかさかんにやりました。そうしてアジアがみんな協力して、平和実現に努力するというのは結構ですが、アジアがみんな平和主義になってしまったら、今度はソ連のほうではアジアをやっつけるのはわけはありません。ですから仏教家やなにかが平和主義をやっているのは、結局ソ連の片棒を担いでいるのです。つまり逆効果になるのです。そこに難しいところがあるのです。そうかといって宗教という看板をかけている手前、大いに軍備をしろということは言えないわけです。それで私がいつも言う通り、平和主義の一番良いのはスターリンに宗教を信じさせるのです。まあ宗教信仰に入らせるわけです。それよりほかに世界平和というのはありません。肝腎な鉄のカーテンの中をそのままにしておいて……もっともそのままにしておくよりしようがない、手がつけられないのです。そうして外のほうでワイワイと言ったところで、なんにもならないというよりか、結果は弱くなります。いよいよ先方のほうはのさばってくるというわけです。
いま、日本の再軍備の問題について大騒ぎをしてますが、日本人で再軍備を反対しているのがずいぶんあります。そういう連中はごく小乗的に、亭主が戦に行くとか、伜とか親父が戦に行くというのは、もうコリゴリしたからというたわいのない連中と、もう一つは日本人でありながら、日本をぶっ潰してソ連の属国になるという思想の持ち主と、その両方です。ですから無知な連中と悪質な連中とのその二人が再軍備を反対している。そういう点も大いに言いたいのですが、どうも宗教家がそういうことを言うのは具合が悪いので言わないのと、もう一つはそれがやはり神様の御経綸ですから、それで良いのです。それをちょっと書いてみたのです。
それからメシヤ教は太陽の宗教なのです。宗教というより太陽の救いです。これはいつも言ってますが、それを徹底して書いてみたのです。
(御論文「太陽の救い」朗読)〔「著述篇」第一〇巻六九〇―六九三頁〕
やっぱり少し話さなければ具合が悪いようです。
よく御守護電報が来ますが、じきに治るような、難しいようなことでなく簡単に治るようなことの電報があるのです。これを大ざっぱに言うと、急所が分からないのと、それから浄霊に力が入ることです。その点が一番です。そこで急所を見つけることを大いに修行しなくてはいけません。それから「力を入れてはいけない」ということはよく言ってますが、つまりこう(御浄霊)して治りが悪い。苦しみなら苦しいのがなかなか取れないということは力が入るからです。力をグンと抜くのです。ところが苦しいと力を入れますから、一生懸命になると治りが悪いということはいつも言っていますが、そんなようでその点を大いに忘れないでやるとだんだん慣れてきます。そうすると力を抜いてやるのが癖になります。そういうようにやらなければならない。それで急所ですが、原因はたいてい熱です。それはなんといっても頸のまわりです。いまの浄化している人をみると、ほとんど頸のまわりです。一〇人のうち八、九人までそうです。それで頸のまわりの固まりを発見するのです。それに一番良いのは、前から頸、延髄の後ろのほうをみるのです。そうすると一番良く分かる。かえって後ろを向かせるよりか分かります。そうするとこれ(頸部)の左か右のどっちかが必ず腫れてます。そうすると下のほうから手を入れてみると、ここ(延髄)にグリグリがあります。そうしたら離して力を入れないでやる。そうすると熱を取るのには一番早いです。そうして指でちょっとやるとすぐ分かります。それから額が肝腎なのです。それから人によってはこうして(頭の上部より)頭の芯のほうをやっても良いです。それからいま言うここ(額)です。これで熱はだいたい取れます。あと背中の熱とか腰の熱がありますが、これはなんでもありません。結局頸の熱です。いまその見方と頸の熱の取り方を話したのですが、そういう方針でやってご覧なさい。それで後ろの固まりは、後ろ向きになってやるより前からみたほうがかえって分かります。それから片方の、右が固くて左が柔らかいというのがあります。それから下顎に固まりがあります。結局頸のまわりを一番みるのです。そうするとたいてい分かります。
それから御守護電報に年齢を忘れることがよくありますが、年齢が肝腎なのです。よくなんの何某<なにがし>と名前を書いてありますが、年寄りみたいな名前で、よくみると赤ん坊ではないかということがある。また花子とかと馬鹿に若い人の名前で、ところが御本人は腰の曲がったようなお婆さんです。だから年齢だけは忘れないようにしてください。
それからお願いする場合に、よく「光明如来様」と「明主様」と両方にお願いしますが、あれは「明主様」だけで良いのです。というのは、私が光明如来様としてのその働きをするのですから、元は私のほうだから、元だけにお願いすればそれで良いのです。
それから私はいままであんまりはっきり言ってなかったので、だんだん時節に応じていろんなことをはっきりさせていきますが、こういうことも知っておかなければならない。いま私がやっている仕事は伊邪諾尊<いざなぎのみこと>の仕事なのです。それで『古事記』にある「天の御柱<あめのみはしら>を両方の神様が廻り合った」ということがありますが、最初伊邪冊尊<いざなみのみこと>すなわち妻神様のほうが右まわりをした。そうしたところが世の中がうまく行かなかったので、要するに失敗したのです。そこで伊邪諾尊が「そうらみろ、オレが最初右まわりはいかんと言ったのに、お前が右まわりをしたからそうなったのだ。こんどはオレが左まわりをしてやろう」というので、天下が治まったということがあります。というのは、右まわりというのは右進左退で体主霊従<たいしゆれいじゆう>です。それを伊邪諾尊様が左まわりにすると天下が治まったというのです。本当のやり方をしたのです。ちょうどいまの医学は右進左退ですから体主霊従です。右まわり医学です。今度は浄霊という「霊」を主にするというのは左まわりです。それで私がやっている仕事は伊邪諾尊の仕事です。
この間多賀さんの奥さんに天照大御神様が懸って、私のことを「主神様<すしんさま>」と言ってます。良いことがあって御祝いに来たのです。「主神様に御祝い願いたい」と言ってきたのです。最後に「主神様に御守護をお願いしたい」と言うのです。これは本当に懸ったのです。そうすると、天照大御神というと世の中ではたいへんな最高の神様のように思ってますが、しかし天照大御神は伊邪諾、伊邪冊尊の子供になるのです。これは神代史<じんだいし>にもあります。天照大御神は伊邪諾尊の娘さんになる。ですから分かりやすく言えば私の子になるわけです。そこで天照大御神様は本当に人を救うという力はないのです。それから月読尊<つきよみのみこと>も御祝いに出ました。いずれ『地上天国』に出しますが、まだちょっと早いので正月のに出そうと思ってます。それで月の神様と日の神様の南方でなければ救えないのです。そこで日と月が南方ピッタリして出るのが光なのです。光というのは、日も月も両方とも光はありますが、本当の光の力というものは両方がピッタリ合わなければ出ないのです。ですから私から出る浄霊の光も、そういった日と月の両方の光なのです。そこで光明如来という名前も、「明」は日月<じつげつ>ですから、日月の光というこれが本当の力になるわけです。そういうわけです。これはいろんなものに現われてます。卍<まんじ>でもそうです。仏教のはこういう卍です。私のほうで先に卍をつけたことがありますが、逆のまんじです。仏教のほうではこういう卍を逆まんじといってますが、実は仏教のほうが逆まんじです。右進左退です。いままでの逆まんじ()というのが左進右退になってます。だから仏教は月だということは、やはりそういうことです。これはなかなかおもしろいと思います。巴<ともえ>も、こういう(右まわり)書き方と逆のと両方あります。これもおもしろいのです。三つ巴、二つ巴というのがありますが、三つ巴は五六七が左進右退と、右進左退になっている。
それで言霊<ことたま>からいっても伊邪冊の「ミ」は女で、「ギ」は男です。「イ」ということは人間ということです。「イ」というのは「人」というのを縮めたものです。「ザ」というのは「ジャシン」の「ザ」です。字で書くと「邪」ですが、言霊からいっても、「ジャ」を縮めると「ザ」です。やはり「蛇」ということです。「ナミ」というのは「柔らげる」とか「和める」とか、女の柔らかさということです。「ナギ」というのは「薙倒す<なぎたおす>」という非常に強い力です。やはり「キミ」になるのです。「キミ」という言霊もたいへんなものです。「キ」というのは霊で、「ミ」というのは体です。「キミ」というのは霊体ということです。「キ」というのは精神です。心とか目に見えないものです。「ミ」というのは水、女ですから、言霊からいうと伊都能売<いづのめ>ということになるのです。こういうこともだんだん書きますが、方角でも「キタ」と言いますが、「気が足りる」「気が満ちる」ということです。それから「ミナミ」ということは「水のみ」とか、つまり女です。やっぱり陽陰、火水です。こういうことも今度精しく書きます。
それからこれもちょっと知っておかなければならないことです。
(御論文「活字の浄霊」朗読)
〔「著述篇」第一〇巻七〇四―七〇五頁〕
だからなんでもかんでも『栄光』『地上天国』を読ませるに限るのです。読めば、意味が分かるばかりでなく、それによって浄霊されることになるのです。ですからその人の魂がそれだけ浄まります。そのときただ読んだだけで事柄を忘れても、一つの浄まる力がそれだけ残っているわけです。言い換えれば小さな植物の種を播いてあるようなもので、いつかそれが育ってきます。だからなんでもかんでも読ませるに限るのです。ですからよく話を聞きたいという人に、話も良いですが、とにかくそのとき新聞なら新聞を一枚やって、それを読めば最初の浄霊をされたわけですから、あんがい効果があります。