『御垂示録』二十六号 昭和二十八年十一月一日(9)

〔 質問者 〕入れ墨をした人は霊的になにか関係がありましょうか。

【 明主様 】なにもありません。

 

〔 質問者 〕差し支えないものでしょうか。

【 明主様 】差し支えありません。あれは皮だから。

 

〔 質問者 〕お灸の跡とどちらがよろしいでございましょうか。

【 明主様 】どっちといって、たいしたことはありません。そういうことは屁みたいなことです。それどころではないので、つまりいま苦しんでいる人をいかにして助けてやるか、いかにして仕合せにするかということが眼目です。自分の体の皮など問題ではありません。自分は彫物を彫っているから人を助けることはできないということはありません。手が一本なかろうが、そういうことはなんでもないことです。

 

〔 質問者 〕そういう人をいま助けております。

【 明主様 】それは結構です。

 

〔 質問者 〕入信させていただいてもよろしいでしょうか。

【 明主様 】ても<ヽヽ>というのは、とんでもないことです。そういう人こそよけい入信させなければならないのです。ですから本当に清い人はそういう必要はないので、まず勝手にしておいてもよいですが、悪い奴や穢れた者を救うのが本当の救いなのです。そういう考えでゆくと、いまの世の中は非常に穢れているから、引っ込んでいてはぜんぜん駄目です。穢れた苦しんでいる奴が多いから助けなければならないのです。あなたがいま言った考えと反対の考えが本当です。私は大本教にいたときに「自分は天国に救われたい、どうしたら救われるか」と言うから、私は笑ったのです。「自分はそういうことは思わない。自分は多くの人を天国に救ってやりたい、それで地獄に行くのならかまわない」と言ったのです。穢れた人や苦しんでいる人ほど助けてあげなければならないのです。助けると言っても、肉体ではなく霊のほうです。ですからお灸の跡があろうが、手がなかろうが、片端だろうが、そういうことは問題ではありません。

「『御垂示録』二十六号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p269~p271」 昭和28年11月01日