『御垂示録』二十六号 昭和二十八年十一月一日(8)

〔 質問者 〕信者で寄留地のお寺で葬式をし戒名をつけてもらいましたが、本籍地のほうに行ったところが本葬をして戒名もつけ変えなければいけないとのことで、さらにつけ変えましたが、どちらが本当でしょうか。

【 明主様 】もう仏界はなくなったようなものだから、どっちでもよいです。

 

〔 質問者 〕一つにしてもよろしいでしょうか。

【 明主様 】一つにしてもよいし、二つあってもよいです。なにしろ仏界というものがもうないのだから。けれどもないと言っても、代わりのものができたかというと、代わりのものもできてないので、霊は宙に浮いているようなものです。従って戒名などはどっちでもよいので、意味はありません。いずれ私は仏界を作ることになってます。救世教の信者の祖先というのは、みんな救世教の本部とか支部に霊が来てますからそれでよいのです。ここならここがもう天国になっているのだから、そこでみんな非常な活動をして働いているのです。だから仏教のほうで救われたのと違います。仏教のほうの極楽の霊というのは、私が前に霊をやっていたときに霊から言われるのは、極楽というのは楽は楽だが、働く必要がないからつまらないと言うのです。自分は働きたいから、神様のほうの世界に行かしてもらいたいということをいくども聞きました。極楽というからして、極く楽は楽なのですが、活動ということはできないのです。ですから年中歌舞音曲をやり、碁将棋をやってますが、そういうことが好きな人はよいですが、働くことが好きな人は困るのです。救世教信者の先祖というのはみんな働いてます。その霊というのは何十万何百万とたいへんなものです。いずれメシヤ会館のほうができてから冠婚葬祭のこともボツボツやるつもりです。

 

〔 質問者 〕救世教信者の年回忌はお坊さんのほうでする必要はないのでしょうか。

【 明主様 】仏法はなくなったのです。しかし仏界はあるのです。だからこっちでできるまでは居所がなくてはならないのです。そこでいまはまだ必要なのです。それからもう一つは、いままでお寺ならお寺でやってお寺参りにも行っていた者が止めてしまうということは、救世教が誤解されるのです。ですからいままでどおりやっていたほうが世間体もよいし、坊さんも喜びます。いままでどおりにしているほうがよいです。私もお寺には付け届けをするし、いままでどおりにやってますが、やはり喜びます。キリスト教などでは日曜に教会堂に行っても差し支えありません。そうするとキリスト教の牧師も、救世教は非常によい、信者をとることはないからと好感を持ちますから、それがよいのです。救世教は酷い、信者をみんなとってしまうということになると、その恨みの想念が多少の煩<わずら>いになります。そういうものが救世教の敵ではないので、みんなこっちが抱擁しているものの中にあるのですから、良くしてやっておいたほうがよいです。キリスト教も仏教も、あらゆるものが救世教の中にあるのですから、それをやっつけたり叩いたりするということは、やっぱり自分の中にあるものをやるということはないです。やっぱり眷族というように思っていればよいのです。

「『御垂示録』二十六号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p267~p269」 昭和28年11月01日