『御垂示録』二十六号 昭和二十八年十一月一日(11)

〔 質問者 〕人間の気の大きい小さいということは、心の大きい小さいということと同じでございましょうか。

【 明主様 】同じです。「気は心」と言いますから。

 

〔 質問者 〕それは物理的に実際に大きい小さいということでしょうか。

【 明主様 】物理的でなく霊的にです。

 

〔 質問者 〕人間の心というのは生まれつき決まった枠内だけで大きくなり小さくなるというものでございましょうか。

【 明主様 】それは無限です。心に枠はありません。それはあなたが宇宙を想像しても、どこまでということはありません。どんなに大きくてもよいです。星を想像して、あれは何万里何億万里か分からないが、そういう想念というのは無限大であり、小さければ無限小です。そこで枠というのは運命です。

 

〔 質問者 〕そうすると心は無限大に大きくなるが、人間の考え方は、小乗の人は非常に小さいというように、小さい考えしかできないという、その関係はどうなりましょうか。

【 明主様 】それは別に関係ではないのです。それは小さい考えの人も大きく変わることもあります。そのときには小さい考えでも、それがいつ変わるかもしれません。私でも子供のときには世界を救うという考えはなかったのです。

 

〔 質問者 〕大きな悪いことをする人間は大きな心の人間でございましょうか。

【 明主様 】そうです。だから大きい小さいに善悪はないのです。別のことです。

 

〔 質問者 〕魂の黒い白いとは別なわけでございますか。

【 明主様 】別です。それは黒い大きなのもあれば、白い小さなのもあります。

 

〔 質問者 〕心の大きいのは大乗、小さいのは小乗、それから大乗は白く小乗は黒い、というものでしょうか。

【 明主様 】そうも決められません。第一決めようとする考え方が間違ってます。それはそうでしょう。今日は黒くても明日は白くなるのもあります。ちょっと前には白かったが黒くなるのもいます。さっきまでは良いことをしようと思っていたが、馬鹿馬鹿しい、こういうことをしよう、というそれが悪いと黒くなります。

 

〔 質問者 〕客観的に白い黒いということが主観的になるに従って、

【 明主様 】それはおかしいです。客観的に白いということは分かりません。

 

〔 質問者 〕分かりませんが、主観のほかにある客観が、

【 明主様 】いや客観も分かりません。ではあなたが、この人は良い人か悪い人かが分かりますか。

 

〔 質問者 〕それは主観では分かりませんが、客観では、

【 明主様 】しかし泥坊でもその良い悪いは分かりません。

 

〔 質問者 〕そうすると刹那刹那のその人間の魂が黒い白いということは言えないのでございますか。

【 明主様 】言えません。

 

〔 質問者 〕そうすると御教えの、魂の白い人間、黒い人間というのはどこを標準にしたものでございましょうか。

【 明主様 】それは黒い白いと決めなくてもよいでしょう。決めようとするのが間違ってます。

 

〔 質問者 〕人間向上する上においての考え方が、

【 明主様 】向上するのは自分でしょう。だから自分が向上すればよいのです。

 

〔 質問者 〕その方法としまして、

【 明主様 】神様を信じていれば白くなるに決まってます。ただ人の白い黒いは分かるわけがないのです。それを分かろうとするのは間違ってます。それは自分が白ければ分かります。中には分からない人もないこともありません。つまり良いと思ってやっていること、自分では白と思ってやっていることが、実は黒いことがあります。お医者さんなどがそうで、助けようと思って殺しているのです。助けようということは白ですが、結果において黒です。

 

〔 質問者 〕大乗の人の魂は白黒には無関係でございましょうか。

【 明主様 】無論そうです。無関係だから大乗なのです。それに関係すれば小乗になるのです。だから白とか黒ということが、その目標ですが、それの白黒によってその人が本当の人か嘘の人かということになります。しかし目的には智が伴わなければならないのです。共産主義者でも天国を造るということを言ってます。ですから目的はよいのですが、手段方法が悪いのです。その方法の善い悪いを判別できるのは智慧です。ところがいままでは本当の智慧が違っていたのです。この本当の智慧というものを教えるのは救世教よりほかにないのです。いわゆる神智です。そこでいま大乗と小乗と言うが、大乗でもいけないし小乗でもいけないのです。それから大乗でなくてはいけないし小乗でなくてはいけないのです。小乗にあらず大乗にあらず、小乗にして大乗なりというわけです。だから大乗でなくてはいけないと思うと、限定することになるから、それでは大乗でなくなるのです。だから大乗でなくてはいけないと思うことがもう小乗なのです。これが分かればその人はよいのです。つまり一人前になったわけです。だから本当いうと大乗と小乗はないのが本当です。そこでバッジにあるとおり、大乗と小乗が組み合わせてあって、その真ん中にいるのが本当です。この真ん中が伊都能売です。ここは経も緯もないのです。両方が組めば経緯がなくなってしまって、つまり丸になるわけです。それが本当ですが、それを知るということは覚りなのです。仏教は覚りを説くが、かなり深い所までいっても、そこまではゆかないのです。というのはお釈迦さんがそこまでは知らなかったからです。ですから形でいうと十になって、これが天津金木といって、昔からあるその形です。それからその間に入ってまた経緯十文字ですが、十六の菊ということになってます。八紘を霊体にして一六本になるのです。これの本当のことを説くにもたいへんだし、それを知るのもたいへんです。ですから、説くに説かれず、説かれずに説くということになり、幽幻微妙、深遠微妙なものです。覚るよりないのです。ではそこまでは行けないかというと、そういうことはありません。それはいままでは行けなかったが、私はそれを説いているわけです。だから本当の大乗からゆけば、罪穢れということはないのです。だいたい善か悪かということは結局分かるわけがありません。私がいつもありがたく思っているのはお医者さんなのです。お医者さんが病気を悪くして治さないということが、どのくらいありがたいか分からないです。もしお医者さんが片端から病人をみんな治してしまったら、救世教には一人も来ません。ところが幸いにも病人を作りそれを治さないということになるから救世教が発展するのです。だからお医者さんはたいへんに良い役をしているのです。そうなると善悪は分からなくなります。前に三宅雪嶺<みやけせつれい>の説で、殺人ということは必要だ、法律でやるよりも殺人でやるほうが秩序が保てるということを書いてます。人間をウンと苦しめる、法律に引っかからないようにして苦しめることができる。しかし殺人ということがあるから、ある程度までしかできないということを言ってますが、その時分には大乗も小乗も知らなかったが、いまでもそれは間違っていません。これ以上苦しめると、アイツはオレを殺すだろうというわけで止めます。ですから殺人が悪いとも言いきれません。大自然というもの、神様の天地の律法というものは、人間の目で見ては実に分かりません。また、共産主義というのは悪いといったところで、では共産主義がなぜ興ったかというと、資本家があんまり横暴をして下層階級を苦しめるから、これ以上はやりきれないのでなんとかして団結して対抗しなければならないというのでできたのが共産主義ですから、共産主義を作ったのは資本家というわけです。やっぱり穢すから黴菌が湧いて、その穢れを食うという理屈と同じです。だから実に深遠教妙で、人間の目で見た判断で善いとか悪いとか言えません。それから小乗大乗、あるいは大きい心小さな心といっても、本当に大きなことをする人間は、実に小さなことに気がつかなければならないのです。大きなことばかり考えて小さなことに気がつかないのは失敗者になります。大きな考えを持っていても、非常に小さな考えも持っていなければならないのです。結局小さなことに気がつかなければ大きなこともできないのです。そこで大乗にあらず小乗にあらずで、いっぽうに偏ってはいけないのです。大乗でなければいけないということが偏っているのです。しかし大乗は善悪無差別だから非常に誤られやすいのです。悪い方面だけを見ると、アイツは悪いと見られるのです。それで小乗は決して間違ったことをしないから非常に善く見られるのです。それで結果はどうかというと、大乗の人は世間に非常に良いことをするのです。それで小乗は自分だけ守って大きいことをしないのです。そうするとそれは結局悪になります。大乗は悪も咎<とが>めないでやるから悪に見えるが、社会的に功績を残すというわけで、仕事ができるわけです。そういうことから見てゆくと、やっぱり善になるわけです。そこでどっちに偏ってもいけないのです。このことを覚り得るというところに向上があるわけです。だから実に神秘幽幻なものです。それでこれは神様がやっているということよりも、そういうふうに神様が造ってあるのです。その天地の律法というものは、神様といえども破ることはできないのです。そういうふうに一分一厘の隙もなくこしらえてあるのです。人間がいくら勝手なことをしようとしても、いくら目的を起しても、間違っている者はピタッとやられてしまいます。ただ時節によってそれが、ちょうど薬と同じようなもので、麻薬というものはすぐに反動的作用が現われるので怖がるが、ほかの薬は麻薬よりも期間が長いし、反動がすぐに来ないから良いとして使っているというのと理屈は同じです。悪いことをしてもすぐに見つかるような世の中になったら悪いことをする者はなくなります。霊界が昼の世界になると、見つかり方が早くなるし、またそういうことをするのが馬鹿馬鹿しくなります。あれは知れないからするのです。盗んだりごまかすことが知れるまでに間があるから、知れないですむというように錯覚してしまうのです。今日悪いことをしたのが明日知れるということになると、それは悪いことをする者はなくなります。そこでミロクの代というのは、霊界が明るいから、悪いことがすぐに知れるのです。それで悪いことをしても興味がなくなるのです。悪をいくらかでも隠せるから興味があるのです。ですから時間の問題です。薬もそうで、のんでもすぐに浄化が起ったら、薬をのむ者はなくなります。

△御講話おわり△

「『御垂示録』二十六号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p272~p278」 昭和28年11月01日