昭和二十八年十月七日の御講話(1)

 一〇月七日

 自然農法もだいぶ良くなってきまして、特に今年発見したというか、技術的の面についてです。私が原理を発見して自然農法というものができたのですが、技術面のほうでだんだん良くなってきて、今年になってすばらしい方法を発見したのです。その一番の成績は初年度で五割増産した所があるのです。というのは深く耕すのです。一尺から一尺二寸ぐらいの深さにするのです。そうして天地返しというのをやるのです。そうすると成績が非常によいのです。それはどういうわけかと言うと、私は百姓ではないから、田に入らないから分からなかったのですが、いまの日本の水田というものは、長年強い肥料をやるので、それがだんだん沈殿して肥料の層ができているのです。つまり肥料の壁ができているのです。それですから根が伸びる場合にそれに閊<つか>えてしまうのです。そうして土の養分を吸えないわけです。あるいは、閊えなくても、その中に根が入っても、なにしろ土ではなくて肥料の固まりですから、稲が育たないわけです。それですからいままでは初年度は減ることはめったにないが……たまには減ることもあったが……平年作だったのです。そうして肥毒が抜けてゆくに従って、年々増えてゆくというわけだったのです。ところがいま言った深く耕すのは、肥毒の壁を突き抜いて、土が上に出てくることになると同時に、壁が壊れてその辺の土が平均してくるわけです。ですから肥毒の固まりのようなものはなくなってくるわけです。そこで充分稲が育つわけです。そのために初年度から大増産になるということが分かったのです。その成績を上げた所は、いままで三俵ぐらいだったのが、いま言うような方法でやって一〇俵とれる予定だということですからすばらしいものです。いままではすべて内輪内輪に言っておいたほうが間違いないから五割と言ったのです。前に言った「五カ年にして五割増産」ということは、ごく内輪に言ったのです。

 本当のことを言うとかえって信じないのです。ですからそういうことが分かっていたので、前に書いてあります。

 (御論文「農業の大革命 飯米十割増産は易々たり」朗読)〔「著述篇」第八巻五五六ー五五九頁〕

 二五年ですからちょうど三年前に、一〇割増産、二〇割増産ということを書いてあるのです。しかしこういうことを書いて、あんまり驚かせてもまずいから、そこで五割と内輪に言ったわけです。そこにもっていって世の中のほうときたら、ご覧のとおりなのだから、急いで全国的に知らせなければならないのです。実にいまの農民の苦しみというのはたいへんなものです。それで今年ほど肥料と病虫害駆除の薬を使った年はないのですから、この費用というものは何十億か分からないでしょう。

 御伺い 政府の発表は六〇億ですが、事実はもっと行っていると思われます。

 実際には一〇〇億もあるでしょう。ついでだから話しておきますが、政府でなにかやりますが、そのときには悪いほうは言わないで良いほうだけ発表するのです。それはつまりふだんから大いに科学を宣伝しているので、科学の効果があるということを見せないと具合が悪いため、そこで良いほうだけを取り上げて言うのです。ですから屁のような手術に成功したとか、薬が効いたということを新聞にデカデカと出してますが、しばらくたつと煙<けむ>みたいになります。そういうことを見ても実にけしからんことです。そういうようなわけで、一日も早く知らせなければならないのです。今度ちょうど報告が来て、そのうちの三つがそういった深掘りで、もっとも成績をあげたのがありますから、その三つの例を添えて、新聞の一頁広告を出そうと思ってます。いまその原稿を書いてますが、とにかく世の中に早く知らせなければならないわけです。そういうようなわけで、大いに間違ったことが多いのですが、それについて書いてみました。

 (御論文「詐欺時代」朗読)〔「著述篇」第一一卷六三〇ー六三三頁〕

 詐欺にもいろいろあるというのは変なことですが、人を瞞<だま>すのが詐欺で、一色ですが、つまり多過ぎるために詐欺ということに気がつかないのです。だから売薬などでも、効かなければ「けしからん」と言うのがあたりまえですが、効かなくても「これはこういうものだ、気休めみたいなものだ」と言ってすましてますが、これはそういうことが多くなってしまったので分からなくなってしまったのです。よく昔流の封建的の主人とかに、奉公人などがなにかというと、どなりつけられたり頬を叩<たた>かれたりしますが、これが、こういうものだということになっているから、あえて不思議はないことになっているのです。田舎などではいまでも、嫁などは非常に虐待されて、それこそ嫁だけは台所でメシを食うという所がよくあるそうです。けれどもそれがあたりまえだ、こういうものだという一つの運命的に解釈しているのです。それと同じように、お医者が言うことが違ったり……これは違うことのほうが多いのです……お蔭話などを見ても、「一週間で治る」「一カ月で治る」ということを言っても、それはぜんぜん違っています。それだから浄霊のほうに来るのでしょうが、しかし医学では治らないのが真理なのだから、これはだれでもそれがあたりまえです。ただ一時押さえで治ったように見えるが、しかししばらくすると、元のとおりに発病するということはあたりまえです。よく冷静に見ると、実に真実のものはありません。本当に真実のものは救世教以外にないと言ってもよいくらいです。それで一番罪なのは、ここにも書いてあるとおり宗教の詐欺です。それだから世の中から宗教というものが軽蔑されたり、また少し古いのは立ち行かないような状態になっているのです。だから肥料迷信というのも、一つの迷信を迷信と気がつかないようになってしまってますから、どんな実際を見せようとなかなか信じられないのです。ですから去年一八俵とったⅠという人は、最初のうちはみんな軽蔑して、大勢で寄ってたかって、無肥料で作るというのはどうかしていると、手を打って冷やかしたそうです。そういう人たちのいまの顔が見たいと思いますが、近ごろはぜんぜん沈黙どころか、コソコソとまねを始めているのでしょう。

 御伺い まねはしておりますが、座談会などにはまいりません。

 そうでしょう。しかしもう少したつと頭を下げてきます。これら迷信は実に根強く入ってます。病気もそうです。だから詐欺にかかっているということが、詐欺にかかりつつ詐欺と思わないで詐欺を信じているのです。だからなんと言ってよいか分からないので、やむを得ず、この間のように「超愚」という名前をつけたのです。

 それから『救世教奇蹟集』を今度発行しますが、広告文はよほどうまく書かないといけないが、なかなか難しいのです。だいたい救世教の言うことは、いままでとはあんまり違い過ぎるので、よほどうまく書かないと分からないのです。分からないどころか逆効果になって、テンデ気違い扱いされる懸念があるのです。ですから私がその広告文を書きました。

 (『世界救世教奇蹟集』(広告文)朗読)〔「著述篇」第一一巻六四一ー六四三頁〕

 それから有限力と無限力ということを書こうと思ってますが、というのは、このあいだ中騒いでいた理論物理学ですが、これについてはこの間も話したとおり、窮極において行き詰まっておしまいになってしまうのです。それで他のことはともかく、医学に関したことは駄目になることがはっきり分かっているのです。というのは、すべて力というものは、計算のできるもの、何馬力とか、あるいは粒子とか……いまは顕微鏡がだんだん進歩して一千万倍くらいまでも分かるそうですが、しかしこれは顕微鏡に写るわけではなくて推定です……要するに理論的に計算してゆくので、科学は大いに進歩しているようですが、それでだんだん進歩してゆくと、結局零<ゼロ>になってしまうのです。一千万倍から一億万倍、十億万倍に見えてゆくと、科学ではこれは理屈でも分からないのです。だいたい科学というものは「物」なのだから、物には限度があります。だから科学を極めて行っても、結局ある程度まで行ったらおしまいになります。機械や理論では分からない所に行きます。だからそんな面倒臭いことをしなくても、私は無限力ということを言っているのです。また真理はそれなのです。それで無限力というのは限度がなく、時間空間を超越しているから、これほど大きな力はありません。浄霊の力というのは無限力です。レントゲンとかラジウムで病気を治そうというのは有限力です。なんとなれば無限力というのは、さっきも読んだとおり目にも見えない手にも触れないもので、空と同じです。科学は有限力を研究する学問なのだから、無限力にまでゆけば、それはもう科学ではなくなります。だから科学がだんだん進歩してゆけば無限力に行ってしまいますから、そうするとそこでおしまいです。この点が難しいといえば難しいが、易<やさ>しいといえば易しいわけです。科学のほうでは、たとえ原子爆弾でも地球全体を壊すことはできないので、やっぱり限度があります。大きくみて日本一国を壊すくらいのことはできるでしょうが、東洋全体は難しいでしょう。というのは、それだけのものを空中に運ぶことはできません。それであの爆発力にしても、これについては私は二〇年くらい前に……たしか『信仰雑話』にも書いてあると思いますが……地球から水分を抜いてしまえば地球は爆発してしまうということを書いてあります。それで原子爆弾というのは、ごくわずかの所の空気から、ウラニウムとかいろいろな放射線を放射して水分を抜き爆発させるのです。その爆発した力が隣へ隣へと行って大爆発となるのです。その原理なのです。ですからその水分を抜く方法を発見できたので、それが原子爆弾です。そこでいまの原子爆弾一発で二億ドルかかるそうですから、このくらいの水分を抜くということは、その一〇〇倍、二〇〇倍ということになると、機械の操作ではとてもできないのです。それで浄霊のほうは無限なのです。ロサンゼルスでもたいへんな奇蹟がありますが、そうすると私の霊がロサンゼルスまで行くわけですが、私の霊がロサンゼルスまで行くのに一秒の百分の一もかかりません。間髪<かんはつ>を容<い>れずと言うが、そのくらいのものではありません。それで早いということは無限力だからです。この無限力というのは神様の力よりほかにはないのです。それが分かれば、科学というものをまるっきりなくしてしまうのはもったいないが……やるのはやってもよいが……これをたいしたもののように思って、世界中の科学者が総がかりでやる必要はないわけです。それもいずれ書きます。そういうようなわけで、なにごとでも無限の目に見えない力が一番大きいのです。恋愛の結果心中しますが、これは無限力です。つまり有限力なら心中しなくてもすむのです。無限力だから生命を落としてまでやってしまうのです。とにかく生命を自由にするのですから、たいへんなものです。信仰というものがやはり恋愛です。信仰というのは恋愛の極致ですから、もっともすばらしい無限力です。科学がいくらなんといっても、それは信仰の力にはかないません。ですから共産主義者が一番恐れるのは宗教なのです。スターリンがふだん言っていたそうですが、一番恐ろしいのはローマ法王だそうです。他の者はスターリンの自由になるが、ローマ法王だけは駄目だ、カトリック信者だけはスターリンの思うとおりにゆかない、かなわないのだそうです。これは向こうに行って見てきた人に聞きました。ですから宗教という、形のないものほど力は強いのです。力は一番形があるものほど弱いのです。ですから馬の力の「馬力」というのは、ごく限度があります。何馬力の機械とかいうのは限度があるものです。それで上等のものほどだんだん細かくなるのです。そうしてそのもっとも細かいのを通り越すと無限力になるのです。そういうようなわけで、有限力と無限力ということをいろいろなことに当てはめてみると、よく分かります。

「『御教え集』二十七号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p157」 昭和28年10月07日