昭和二十八年十月十六日の御講話(1)

 一〇月一六日

 ようやく上棟式ということになりましたが、二、三日前に行ってみましたところ、家屋というものはできあがるに従って、だんだん広く見えるもので、思ったよりもずいぶん広く見えて、後のほうの人などは双眼鏡でなければいけないかもしれません。とにかく宗教的建築としては画期的のものだろうと思います。展望台も一緒にできるだろうと思ってます。鉄材の余ったのがだいぶあるそうですから、ついでにやると非常に楽にゆくわけなので、一緒にできるつもりです。それで展望台も最初の設計よりもだいぶ大きくして、大勢入れるようにするつもりです。これはガラスずくめの家ですから、よほど変わっていておもしろいと思います。いま美術館の敷地も作ってますが、箱根の経験からみますと、あんまり大き過ぎてもいけないようです。それは、見る人が疲れてしまうのです。いまでさえ箱根で見るのに、一度にでは疲れて駄目だ、どうしても三度ぐらいで見なければ頭に入らないというわけですから、熱海は箱根の三倍ぐらいの大きさのつもりでしたが、それでは大き過ぎるので倍ぐらいの大きさにするつもりです。その代わり箱根のは窮屈でしたが、今度はゆったりと落ちついて鑑賞できるというような形にしようと思います。休憩室とかそういうものも、もっとゆったりしたものにして、箱根で気がついた欠点を残らず取り去り、本当に理想的な美術館にしようと思ってます。

 いつも言うとおり箱根は霊<れい>で熱海は体<たい>、箱根は経<たて>で熱海は緯<よこ>ですから、どうしても箱根のほうは日本的ですが、熱海のほうは世界的という意味になるのです。それで熱海ができると、日本は無論ですが、外国のほうまで発展するわけです。つまり熱海は体ですから、どうしても体的に拡がってゆくわけです。本年ハワイからアメリカのほうに進出しましたが、ちょうどこの救世会館が建築に取り掛かるころからハワイ、アメリカとなってきました。会館ができあがると、アメリカのほうへすばらしく発展するという段取りになるわけです。それで神様のことはすべて型で行くのですから、型ができただけずつは霊界でそのとおりに拡がるというわけなのです。この点が人間の仕事と非常に違うのです。ですから順序と型です。それを見ていると分かるし、それからまた私はそういうようにやっているわけです。それですから別に心配することも、いろいろ迷うこともないわけです。神様のほうの設計順序がチャンとありますから、そのとおりにやっておればドンドンうまくゆくわけです。実に不思議なことです。それでこういうことは人間が始まってからまだないのですが、それはいままでは夜の世界ですから、全部月のやり方です。今度は太陽が出たのだからまるっきり違うというわけです。ですから反対なことが多いです。それは日と月とでは反対になります。つまり月のほうは右まわり、日のほうは左まわりです。それでここに肝腎なおもしろい点があります。日の働きというものは「引く」引き寄せるということです。それから月のやり方というものは「突く」つまり攻撃です。ですから「引く」と「突く」との違いさです。それをよく知っているとよいです。突き進むでなくて、引き寄せるのです。それで一番分かりやすいのは、月は水で日は火ですから、物質はみんな月になるわけで、霊が日になるわけです。そこで水を寄せるとかえって向こうに行ってしまうのです。それで逆にやるとこっちに来るというわけです。よく、あせったりして突き進むということは割に結果が悪いので、落ちついているほうがかえって引き寄せられ集まってくるということがありますが、これは真理に合っているからです。ですから私は割合にあせらないで落ちついて悠々としてやってますが、それで非常に仕事が捗<はかど>ってたくさんできるということは、そういう意味になるわけです。ですからそのやり方でゆくと、楽に順調に行って失敗がないわけです。一昨日ハワイからの報告が来ました。いまハワイの信者はもう一〇〇〇人は突破してます。今度本部ができますが、この三月に樋口さんと安食さんが行ったのですから、それでこれだけのすばらしさに発展したということは、無論神様がやっているのですが、実に楽な簡単なものです。それで白人のほうにもだいぶ信者ができかかってきましたから、この分でゆきますと、いずれはアメリカ人の信者もたくさんできます。なんでもそうですが、いままで日本で生まれた宗教で白人を信者にしたというのは、ほとんどないでしょう。今度、救世教が初めてです。つまり世界的宗教です。この報告にもありますが、カトリックの信者などもボツボツ入ってきたようです。カトリックというのはキリスト教の一番カンカンです。それでいて一番勢力があるのです。ですからカトリックを落とせば、あとは楽なのです。それはいずれキリスト教全体がみんな救世教の信者になるのは分かってますが、それはそうとう先のことです。とにかく口が開けば割合に早くドンドンゆくわけです。いまその報告を読ませます。

(「ハワイ通信」(一〇)朗読)

 いま読んだように順調にゆきつつあるわけです。

 それから今度『救世教奇蹟集』の本を出そうと思ってます。なにしろ変わった本で、いままでにそういうものは見たことがありませんから、広告文もよほどうまく書かないと読む気にならないのです。そうかといって、あんまり変わった飛び上がった書き方ではまた駄目です。至極まじめで心を動かすというのでなければならないので難しいのです。それで小さい活字でたくさん書くより、大きい活字で短く書くほうが、目につきますから、できるだけ切りつめて書きました。

 (『世界救世教奇蹟集』(広告文)朗読)〔「著述篇」第一一巻六四一ー六四三頁〕

 いずれは英文にも訳して世界的に配るつもりです。

 それから自然農法もだいぶおもしろくなってきました。特に今年は恐ろしい不作です。それからまた自然農法のほうは恐ろしい好成績なのです。そういうようなやり方も、神様はなかなか行き届いたものだと思います。だから非常にいいチャンスというわけです。そこでこの際、どこでも抜からず宣伝をしているでしょうが、いっそう馬力をかけて宣伝をしなければならないので、それについて今年の新しい成績によって技術的に非常に進歩しましたから、そういう点を主にして単行本を出そうと思いましたが、そういうことをすると遅くなりますから、とにかくこの次あたりの『栄光』を「特集号」にして、今年の実例を加えて、できるだけ利用するというようにしたいと思ってます。それで今年のその技術的の進歩の主な点はこういうことです。いままでは、所によってですが、一年目二年目から増収というのはめったにないので、たいていうまくいっていままでどおり、下手をすると一、二割ぐらい減る所があるのです。どうもこの点がおもしろくなかったのです。最初の年から増産にならなければ早く分からせるのに困るのです。よくお蔭諸にあるように最初は黄色い色で、針みたいな細さで、隣近所から嘲笑されるという……これがどうもまずいのです。ところが今度発見した方法は深く耕すのです。一尺から一尺二寸ぐらいの深さにして、天地返しをするのです。それがために非常によくできるのです。いままでとは断然違うのです。一番成績が良いのは初年目で五割増産した人があります。それで気がついたことは、つまりいままで長い間肥毒をたくさんやって、田の面が肥毒のコンクリート、肥毒の壁ができているわけです。だから無肥料でやってもその壁に根がぶっつかるから思うようにいかないのです。それを深く耕すとその壁を突き破ることになるのです。それでまたいいことには、壁で蓋<ふた>しているから壁の下のほうは良い土なのです。ですからそれを掘り返して天地返しをすると、肥毒の壁が粉々<こなごな>になって良いのと混じるから、肥毒の害というものは減り、そこでよくできるのです。ですから初年目からいくらかでも増産するということになったら、これは否応<いやおう>なしに信者でない百姓も大賛成してすぐからでも始めます。その実例もできましたから これを土台にして大いに宣伝をすれば、みんな簡単に分かります。それで去年一八俵とったⅠという人は、今年は勿論そのくらいか、それ以上はとれましょうが、その人の話では反二五俵までにはしてみせると言っているそうです。無論そのくらいはとれます。というのは、いままでこういうことを知らなかったのです。つまり連作というものの効果です。ところがいままでの農民は連作はいけないと言っていたのです。ということは、肥毒のために連作をするとだんだん弱ってゆくのです。そこで耕作を変えると、変えただけは、肥毒の一つの悪循環といいますか、それが減るのです。これは薬でよく分かります。一つ薬をのんでいると、だんだん効かなくなります。それで薬を変えると一時効くというような意味と同じです。だから連作でなく耕作すると、ちょうど田や畑が変わりますから、ちょうど薬を変えたようなものですから、それで一時よいわけです。そういう意味で、つまり肥毒のない清浄な土で稲なら稲を作ると、土のほうで稲に適するような成分がわいてくるのです。それは実際神秘な話です。そこで年々土自体に特種な性能ができ、その性能がだんだん発達してゆくのです。ですからすばらしく良い土になってゆくのです。ということは、すばらしく肥やしが効いた土になるのです。肥やしといってもいままでの肥やしとは違って、良い意味のもので、つまり神様の作った肥やしで、それが増えてゆくのです。ですからたくさんとれるに決まってます。そういった肥毒のない清浄な土が連作によってだんだん沃<こ>えた土になるのです。それですからいま反五俵として、これが反一〇俵になり二〇俵になり三〇俵になります。そうなると分彙<ぶんけつ>が非常に多くなります。それでもっとも多くなると稲に枝が出てくるのです。だから一本の稲に一〇〇〇粒ぐらい成るようになります。五〇〇粒ぐらいはなんでもありません。ですから一〇俵になり二〇俵になるのはあたりまえです。その方法でゆくと日本はいまに米が余って始末に困ってしまうようになります。それこそ今度は輸出のほうに苦労しなければならなくなります。そうなると農村天国になります。それで救世教によって病気がなくなったら、農村に病貧争絶無の世界ができてしまいます。神様のほうは実にドンドン地上天国を造りつつあるのです。人間もそれに合わしてやってゆくと、あんがい早くできるわけです。もっとも私の命のあるうちに造らなければしようがないわけだから、神様はよほど急ぐわけです。そういった具合で、自然栽培は画期的に良いほうへ大飛躍するわけです。それで農業のほうは医学のほうと違って、分かったら非常に早いですから楽です。それにこれが実行されても失業者はできないのです。反対に大いに恵まれるわけです。ところが医学のほうは、無薬時代になると失業者がたいへんですから、これはなかなか難しいです。ですからどうしても後まわしになるのです。農業のほうは一番手っ取り早いし、今年のように非常な災害で農村の苦しみは、よくニュース映画で見ますが、田はまるっきり枯れ野原のようなものです。それで充分分かったでしょうが、そういうわけですから、大いに自然農法の宣伝に馬力をかけないといけないのです。

「『御教え集』二十七号、19531115、19531016、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p169」