『御垂示録』二十五号 昭和二十八年十月一日(15)

〔 質問者 〕母親一人が熱心な信者で、家族が分からないという所でこういうことがございました。腹痛と熱の御浄化で、チフスとのことにて、御霊紙でもいただき、

【 明主様 】御霊紙でも、という言葉はいけません。「でも」ということは軽蔑する言葉です。昔からこういうことを言います。「でもお茶は飲むな」と言います。「お茶でも」と言いますが、そんなお茶は飲まないほうがよいというのです。よく「御神体でも」「御霊紙でも」と言いますが、それはたいへんな無礼をすることになります。

 

〔 質問者 〕御霊紙をいただき医者の言うとおりにして休みましたが、真夜中ごろ猛烈な下痢などがあり、朝になるとケロリとしてごはんを食べ、支部に御礼にまいりました。ところが医者のほうでは、診察の結果はなんでもないが、手配をしてしまったから隔離病舎のほうに行ってくれというのです。診断が誤っていたと見られるのが都合が悪いためと思われますが。

【 明主様 】そうです。人間の命より自分の面目《めんぼく》のほうが大事なのです。

 

〔 質問者 〕そういうわけで、頼んでも行ける所ではないからというので五日間行ってまいりました。御守護のほどありがとうございました。

【 明主様 】とにかくこの面目というのがたいへんなものです。私なども静岡の事件であれだけ苦しんだのは面目のためです。罪人を作らなければ面目にかかわるというので、面目の犠牲だったのです。とにかく役人というのは面目が生命です。だから自分の面目を立てるためには、国家に不利益だろうが、人民が苦しもうが、そういうことは第二、第三のことです。だから日本の役人が面目病をなくすれば、人民は実に楽になります。いまのは医者の面目です。

「『御垂示録』二十五号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p246~247」 昭和28年10月01日