九月二十三日
いよいよ神仙郷も完成したのですが、これはいつも言う通り、つまり地上天国の模型ができたわけです。これがこれから世界に拡がっていくのです。霊界のほうの中心は、もう地上天国ができているのです。これがだんだん現界に写って世界的に拡がっていくのです。そうするとたいへん結構なことですが、その代わり立派な上等なものができて、拡がるについては汚いものや邪魔なものは除かれなければならない。ですから神様のほうからいうと非常に結構な代わりに、悪魔や邪神のほうは大恐慌を来すわけです。いままで安心していたところを取り払いになるのですから……。それが世界的にだんだん現われてきますから、悪魔のほうは恐ろしくなるし、善のはうはありがたくなる……愉快になるというわけです。そこで破壊と創造が同時に行なわれるというのは、そういうわけです。創造が為されるために、どうしても破壊が行なわれるというわけです。それがだんだん加速度的に速くなって行く。ですから神仙郷というものは、非常に大きな意味があるのです。
それについてもう一つは、つい最近京都にちょうど良い土地が手に入ることになったのです。これはいつも言う通り、箱根が五であり、五は火です。それから熱海は六で、六は水です。七は土です。土が京都になるわけです。ですから、箱根は火であり経<たて>であるからして一番高い。それから熱海は水があって、ずっと低くなっている。で、京都のほうは平らになるわけです。ですから五、六、七でミロクの型ができたわけです。これについては、昨年の春、初めて京都に行ったのですが、そのときに私が「いずれ京都に地上天国を造らなければならない。それには平らな所で、池のある所でなければいけない」と言ったのです。そうするとあのときに釈迦堂に行って、そこを出て法然院に行って、途中で左側に大きな池があって、突き当たりに小さな山があって、平らで非常に具合が良い。ここは気に入ったなと思っていた。しかし売るか売らないかも分からないし、どのくらいの広さがあるかも分からないが、なんとなくそういう気がしていた。ところが今年の春にあの辺に売りものがあるからと見に行ったのです。しかし高いことを言っているので手が出せないので、いずれ神様がなんとかするだろうと、ほうっておいたのです。ところが最近そこを譲りたい……譲りたいということは去年から言っていたのですが、今度は本気になって、割合に安く負けるというので、聞いてみると割合安く、手が出るというような値段なので、それではというので、いま取り決めに行ってます。無論決まります。そんなようなわけで神様のやることは、実に判で捺したようです。所は、広沢の池の所の地所です。嵯峨です。京都では嵯峨が一番良いのです。昔から……あれは平安朝時代の中心だったのです。あそこに釈迦堂があるが、あれも非常に意味があるのです。あそこは、私はいまから四〇年くらい前に京都に行って、嵯峨の釈迦堂に行って天井の栖鳳の龍の絵を見たことがあり、そんなことで非常に印象に残っている。そのときにもう結ばれたのです。で、観音が五の弥勒、阿弥陀が六の弥勒、釈迦が七の弥勒になっている。そうすると、あそこに釈迦堂があって、お釈迦さんが毎日おられるということは、そういった意味です。要するに七です。「嵯峨や御室の花盛り」といって、やっぱり桜が仏です。それで法然院が阿弥陀さんです。あそこには立派な阿弥陀さんがあります。ちょうどその真ん中が今度の地所なのです。まあ私は観音ですから……おもしろいのです。坪数は一万八〇〇〇坪ですから、これもミロクになるわけです。で、後ろに非常に良い山があるのです。松ばかり生えている山があります。横にもあります。それから広沢の池という大きな池がありますが、京都としてはあの辺が一番良いでしょう。それから嵯峨野の秋なんかといって、長唄にもありますが、あの辺の秋は非常に良いです。で、偶然かもしれませんが、今朝のラジオの「趣味の手帳」の話に……秋の虫についての話ですが、やはり嵯峨のことを非常に精しく話してました。あそこは虫の声を聞きながら月を見て秋草が生い繁っている……つまり秋草の庭で、虫の声を聞きながら月を見る。つまり『源氏物語』時代はあれを非常に賞美して憧れていたということを言ってました。そんなような意味で、ともかくも五、六、七……ミロクの意味は、緒<ちょ>についたと言いますか、そういうわけです。で、名前は「平安郷」<へいあんきょう>とつけました。それで良い家があそこに建っているのです。それを「春秋庵」<しゅんじゅうあん>……春秋<はるあき>です。それは京都は春と秋です。夏は箱根、冬は熱海、それで春と秋は京都です。昔は平安の都と言ったのですから、それで「平」という字が入らなければおもしろくないのです。それに土ですから。
あそこに造るのは純日本的なものを造るわけです。熱海はどこまでも西洋風のものを造るのです。だから今度の会館でもぜんぜん西洋風です。展望台とか美術館とか、みんなできるだけ新しい様式のものを造ります。今度の京都のは、できるだけ日本風のものです。ところが京都という所は、つまり日本の美的感覚を非常に良く出してあるように思っているが、これは良くみると、あんがい京都には日本的の美はないのです。あるにはあるが……ごく古い、奈良朝時代の仏教美術でしょう。どうも仏教美術というのは、一つの限られたる宗教的なものですから、大きな意味からいうと本当の美ではないのです。それからその次は藤原から足利です。まあ鎌倉時代は鎌倉に多く残ってますが、京都の美としては、仏教美術の時代を過ぎて、藤原、平安朝時代……そのころはそうとういろんな美術ができましたが、その時分の美術としては貴族的なものです。それも非常に上品なおちついたもので、良いですが、けれども一般的の美術ではなく大宮人的の美術で、まあ非常に華やかだったのです。それから足利になると、なんと言いますか、将軍とか当時の主権者が楽しむための美です。庶民的な点は少しもないのです。しかし、それも非常に良いのです。その次は桃山ですが、桃山がまた非常に豪華な立派なものですが、しかし当時の主権者の満足を得るための豪華な桃山美術だったのです。で、その反動的ともいうべき茶の趣味……そういうものは出たのですが、これも非常に良いのです。それから、次は徳川期に入ってから、元禄時代に至って非常に庶民的の、良いものを作ったために、これはいままでの権力者の楽しんだものとは異なったものができたのです。けれども、元禄時代にはただ庶民的の風俗です。そうして建築とか庭園というものには手がまわらなかったのです。それはそうでしょう。またそうでなくても、衣服や調度が贅沢すぎたといって将軍から禁止されたくらいですから、建築まではいかなかった。それで庭園でも昔から日本にありますが、庭園としての第一人者は小堀遠州でしょう。京都に遠州の作ったものがたくさんありますが、これは非常に小規模で茶には良いのですが、現代人の見た眼から言えば、それほど褒める価値はないのです。京都なんかでは、桂の離宮なんかが非常に大騒ぎをする人がありますが、私の見た目では、あの時代にはなるほど立派であったかもしれないが、今日の目でみるとたいして価値がみられないのです。で、ただ時代というもの……時代の味わいは、これはしかたがないです。他の修学院だとか、まあ平安神宮の庭なんか少しは良いのですが、それとても、自分で言ってはおかしいのですが、ここの神仙郷ほどにいっていません。そんなようで、本当の日本の美を理想的に現わしたという所は、京都にはないのです。建築でも、立派なものというとお寺です。本願寺だとか、平安神宮とか立派ですが、やはり宗教的です。そんなようなわけですから、私は今度の京都のいまの土地は、日本美術を……建築でも庭園でもいままでの時代時代にできたものを総合した、日本の趣味をできるだけ採り入れた、日本の総合美というか、そういうものを造ろうと思っている。そうして京都としての本当の日本美術都市というような、そういった条件に当てはまるようなものを造ろうと思っています。それには水が必要なのですが、良いあんばいに大きな池がありますから、あそこの水をもらえば良いし、山も非常に良く、松ばかりの山があります。今度行けば分かりますが、なんとも言えない良い感じがするのです。
それからいまの嵯峨にも……平安郷ですが、そこにも美術館を造りますが、美術品は大いに仏教美術を採り入れて……これは、あっちのお寺と連絡して、そういうものを造ろうと思ってますが、それについて霊界の各宗の開祖が大いに働き出しますから、それがみんな自分が作った寺ですから、そこを良いようにやるに違いないですから、そう骨折らなくても、ちゃんと良いものは集まりますからおもしろいです。
それからいま新宗教で目立って活動しているのは、ほとんど日蓮宗の系統です。あとは大本教の系統です。大本教の系統は、メシヤ教と生長の家と、三五教<あなないきょう>というのがありますが、あれも最近なかなかやってます。それで日蓮宗の中でも、最近問題になったりした立正佼成会です。あれなんかこの間日蓮の七〇〇年祭のお祝いに、江ノ島の竜口寺……つまり日蓮上人の竜の口の御難の所にできたお寺で、竜口寺に信者が三万二〇〇〇人……大勢参拝したというのです。とにかくそういう大きな団体が参如したのは、竜口寺始まって以来初めてということです。バスなんかが五〇台とか、そんなことを言ってました。いま『東京日日新聞』の宗教欄で投票を募集してますが、あの中で目立ってたくさん入っているのは、ほとんど日蓮宗の系統です。そんなようなわけで、もう仏滅の世が来るというのに、日蓮宗だけがそんなに華やかに活躍しているのは、不思議なように思いますが、これはたいへんな意味があるのです。その意味をいま話しますが、その前に日蓮宗の派で活躍している……活躍していないのもあるでしょうが、とにかくもそうとうに働いている団体を書いてみると、ずいぶんあるのです。
日蓮宗、法華宗、中山妙宗、本化妙宗連盟、本門仏立宗、顕本法華宗、国柱会、霊友会教団、思親会、立正佼成会、久遠妙宗、大日本獅子吼会、仏子道場、霊山会、妙智会……妙智会というのは、ずいぶんやってます。仏所護念会、本門法華宗、立正観光協会、唱和本宗、浄風会、本門経王宗、孝道教団……孝道教団というのは、横浜に大きな家を作って、だいぶさかんな開会式をやってます。観音閣教団、立正安国会、その他。
まだありますが、主なものがこれだけです。ではなぜこういうことになるかと言うと、ここにたいへんな意味がある。これは法華経二十八品の二五番目の観音普門品<かんのんふもんぼん>ですが、法華経は、これは私が始終言っている通り、華を咲かせるのです。仏華を咲かせるのです。花を咲かせると、実が生る。その実が観音様です。観音様というのが、このメシヤ教の子供みたいなものです。つまり観音教団で生まれて、それがだんだん育ってきてメシヤ教になったのです。そうすると、以前に観音教団が生まれたのは霊界です。今度は現界に仏華が咲いて、現界的に観音様が生まれるというわけです。そこで日蓮宗がいまさかんなのは、現界に華を咲かせているのです。霊界に仏華を咲かせたのが日蓮上人です。で、いまは現界に仏華を咲かせているのです。で、いまは現界に仏華を咲かせているのです。で、これは散るのです。花が散るとそこに現界の観音の実ができる。こうなりますから、その意味で良くみていると、これからその通りになりますから、まあご苦労なお役目をしてくれるわけです。ですからメシヤ教はこれから現界的にだんだん発展していきます。実ですから、最初からそんなに大きくはなりません。最初は花の中心にちょっとできます。それがだんだん現界的に拡がっていくのです。大いに期待をもって良いわけです。話はそのくらいにして、浄霊を非常に希望してますから、浄霊をします。