いま理論物理学の研究のため、世界中から偉い科学者が集まっていますが、これは北海道から東京に来るとすると、ちょうど津軽海峡を渡ろうとして函館で話し合っているようなものです。この津軽海峡を渡ると、つまり霊界……宗教のほうになるので、ちょうど科学はいま宗教の手前まで来ているわけです。物性論というのは、そういうものです。つまり物質から、そろそろ霊界のほうに入りかけている所です。つまり霊界のほうへ入らせてしまえばよいのですが、それは結局私がやるよりほかにしようがありません。つまり物質の世界と霊界とを結びつけるわけです。開会のときに湯川博士が「ちょうどいまは闇の中にいて、各々みんなが明るい所を目差しているが、どっちのほうに行ってよいか分からない。そうかといって、どこかに行かなければならないから、思い思いに闇の中を杖を突いて歩いている。科学界はいまそういう状態だ」というようなことを話していましたが、うまいことを言ったので、まったくそのとおりです。それで私が、こっちだと言って明りを見せているが、なにしろ色盲ではなくて、まだ盲ですから、その光が見えないのです。だから見せても駄目なのです。もっと見える時期が来なくては見えないのです。そうかといって、いずれは見えるのだから明りだけはつけているのです。そういう状態です。それでその盲のために闇の中を迷って、そうしてくだらないことをしているのです。それがわれわれから見ると「馬鹿」と言いたいが、馬鹿どころではないのです。馬鹿よりももっと馬鹿ということは、昔からそういうことはなかったから、まだ言葉ができていないのです。それで今日になって馬鹿以上の馬鹿ができたので、新規に言葉をつくるよりありません。それで私は「超愚」としました。「超馬鹿」と言っては、あんまり格好がよくないから、格好がよいように「超愚」として書いてみました。
(御論文「超愚」朗読)〔「著述篇」第一一巻六二一ー六二三頁〕
今日の新聞にもデカデカと出てましたが、今年の不作の原因は東北地方の冷害だというのです。もっとも昔からよく東北地方の冷害というのはありますが、今年はよほど酷かったのでしょう。それでこの冷害というものはどういうわけかと言いますと、無論霊界が寒いのですが、ただふつうの寒いのとは影響が違うのです。さっき藤枝さんから聞いたのですが、信者の田はふつうの人の田より二度高いそうです。また今年の強羅の温度は鹿児島より高いときがあります。今日でも鹿児島は二三度で、ここは二三度五分です。平均したら、鹿児島や福岡には負けますが、東京よりは高いです。日本でも一番高いほうでしょう。こういうことはいままでにないことです。それでここは避暑地ですが、そんなに温度が高いのに凌<しの>ぎやすいということは湿度が低いからです。南洋などでも凌ぎやすいというのは湿度が低いからです。それで乾いているからです。美術館などでも、ここは湿気が多いからカビが出るだろうと言いますが、ぜんぜんそうではないのです。私はここで毎年試していますが、湿気を嫌うのは、一番は掛物類です。それが熱海ではカビが生えるのです。ところが箱根はそういうことはありません。ですから箱根のほうが乾燥しているのです。だいたい高山というのは乾燥地帯です。それで霧があるから、見たところは湿り気があるようですが、霧は一時的のもので、晴れれば、あとはまた乾燥してしまいます。だから強羅はそういった湿気は少しも心配ありません。それでいま言った「ここが高い」ということは私がいるからです。つまり私の光は熱ですから、霊界が暑いから、そういうわけで影響するのです。ですから信者の田が二度高いということは、やはり光明如来様から光が出ていることと、それから信者になると曇りが減るからして、それだけ霊に光が出るわけです。ですからそこの霊界が明るくなるとともに、温かくなるわけです。今年の信州辺りも非常な冷害でやられているそうですが、無論越後辺りもそうに違いありません。そうするとそこにいる人たちに愛が欠乏しているということになります。愛が少ないと、そこの気候が、気候といっても物質的の寒暖計で計るのより、霊のほうの暑い寒いのほうが影響がずっとはなはだしいのです。そこで霊界がつめたいために作物が冷害を受けるという理屈になります。ですから根本は霊界なのです。そこでそういう結果になるのです。これはそういった作物に限らず、人間の生活でもよく気をつけると、そういうことがあるのが分かります。そこの家に入ると、なにかつめたいような、さびしいような家がありますが、それはそこの主人公に愛がないからです。つまり自分さえ良ければ人はどうでもよい、というつめたい心、要するに冷血動物です。だからそこの家がつめたいのです。人間でもそうです。あの人に会うと、どこかしらつめたい、また温かい人だ、ということが分かります。それは霊で、その人の霊が受ける感じです。ですから受ける感じが温かければ愛が多いのです。万事それで分かります。支部でも、発展する支部と発展しない支部ということも、もっとも主要なる原因はそこにあるのです。愛が多く愛が強いということは、光が多いということです。そこで人は光に憧れて集まるという性質を持っているから、どうしてもそういう温かい所には足が向くということになります。オレのしゃべり方が悪い、場所が悪い、家が狭い、ということも多少はありますが、根本的のものではありません。根本はそこの支部長の愛が強く、そうして人を引きつけるということです。それでこれは言霊<ことたま>からいってもおもしろいのです。太陽は火ですから熱で、また熟のことを火と言います。その反対に月は、私の本に書いてあるとおりに、氷の固まりですからつめたいのです。それで「ツキ」ということは「ツク」ということです。ですから人が寄ろうとするのを寄らせないようにするのです。それから「ヒ」は「ヒク」です。これは天理教でも……そこまで詳しくは言っていませんが……そういうことを言ってます。「ヒ」は「ヒク」「ツキ」は「ツク」と言ってます。だからつめたい働きは「ツク」働きになり、温かい者は「ヒク」働きということになります。それはチャンと言霊に出てます。人間の話になってしまいましたが、作物も同じです。ですから作物が良くできるのも、愛が強く多いということが大いに影響するのです。東北地方は気候も寒いのですが、そのほかに、つめたい人が多いからということです。しかしそういった気候も関係するようです。だいたい共産主義というのは、つめたいもので愛がありません。スターリンがいる時分に、片端<かたはし>から人を殺してしまいましたが、中共もかなりまねをしたようですが、スターリンほどではありません。スターリンはちょっと疑わしい者は、それこそノミでも潰<つぶ>すように簡単に殺してしまいましたが、それはつめたいからです。感情があり、愛があったら、とてもそういうことはできません。そういうのも気候から受ける影響もあるわけです。そういうわけで、今年などの米のとれないのはたいへんな問題です。それで最初の発表が六一八〇万石というのです。私はそういう馬鹿なことはないと言ったのですが、これは陸稲<おかぽ>を入れたのです。そうしてごまかそうとしたのです。だから私はあのときに、「農林省は陸稲を入れてごまかそうとした」と言ったのです。それには農林省内にもだいぶ非難があったので、今度は五九八〇万石となったのです。しかし五九八〇万石としたらたいへんな不作です。去年か一昨年かには六四〇〇万石までゆきましたから、五〇〇万石の不足です。人口はドンドン増えているし、米はだんだん不作なのだから、昔だったら百姓一揆ということになります。いまは輸入ということをやってますが、これが自給自足だったら餓死するのがたいへんです。その点からいっても、実にたいへんな危機です。
それから土について前にも言いましたが、強く言ってないので、今度『栄光』にも出そうと思ってますが、土に対して連作ということがたいへんな意味があるのです。米なら米を毎年作っていると、土そのものに米がよく育つような性能が自然にできてくるのです。だから麦との二毛作はいけないということはそのためです。せっかく土が米を育てるような性能になったところに麦をやると、ガラッと変わってくる。そうすると今度は麦を育てる分子になる。というわけで、二毛作はいけないのです。これは分かりやすく言うと、人間が仕事をするにも、一つ仕事をやっていると職工なら熟練工になるわけです。毎年同じ土で一つ物を作っていると、つまり熟練工になるわけです。時間がかからずに良い物ができるというわけです。新しい土というのは素人というわけです。そこで毎年やっていると土が熟練してきて、その性能が増してくるのです。ところがせっかく熟練工になった土を、たまたま肥料をやったりしては元の木阿弥にしてしまうわけです。ところが厄介なのは、信者の人でも肥料迷信から抜けきれない人がなかなかあるのです。それで化学肥料などはいけないが、いままで使っている厩肥<きゅうひ>とか魚カス、油カスとか、そういう物ならいいだろうといっていくらかやるのですが、それがたいへんに影響するのです。だから自然栽培になっても、どうもよその人のように成績が上がらないのはどういうわけでしょう、という疑問を起こしている人がよくあるそうですが、そういうのをよく調べてみると、必ずなにかしら使っているのです。そういうように肥料迷信から抜けきれないのです。ちょうど医学迷信と同じで、浄霊で治りながら、やっぱり「長い間のんだ薬が効いてきたのだろう」とか、「時節が来たのだろう」とか言っているのです。これはお蔭話によくあります。そういうようで、この迷信を打破するのは実にたいへんなものです。
最近の『中部日本新聞』で発行している雑誌に『農業日本』というのがありますが、これはなんでも四万くらい出ているそうです。これに自然農法のことをだいぶトップに出てますが、それを読んでみると……救世教信者の良いほうの面は成績もずっとよいけれども……最後のほうに官吏の説が書いてありますが、それは「農林省でもいままで無肥料でいくども作っている。しかしどうも成績が悪い。だから駄目だ」というわけです。これは前から聞くことですが、つまり彼らのやるのは種に肥毒があって土に肥毒があるのです。そのためにうまくできないのです。これは最初の一年目には苗が黄色くなって針のように細くなって心配するというのがありますが、それなのです。やっぱり麻薬中毒と同じで、麻薬が切れると、一時馬鹿みたいになってしまうのと同じで、根本を知らないから一年か二年の成績が悪いと、それで悪いものと決めてしまうのです。つまり熱冷ましをのんで熱を冷ますと一時よい、それで熱冷ましを止めると、今度はもっと高い熱が出るが、それを通り越せばよいが、そこまで頭が働かないからそういうことになるのです。それからもう一つ官吏の言っていることは「明治初年あたりには反当り一石くらいだった、それが化学肥料を使うようになってから俄然として成績が良くなった。だからそんな無肥料ということは絶対に駄目だ」ということを言ってます。しかし明治初年には一石というのは少しおおげさな言い方で、肥料を使うようになってからとそんなには違わないが、しかし一時は違ったです。それはどういうわけかというと、明治までが無肥料でやってきたのならそれは学者の言うとおりです。しかしそれまでにさんざん人糞をかけていたのです。だからそれが妨害していたわけです。それで化学肥料をやるようになってからは人糞の害から免れたので良くなったのです。これはやっぱり病気と比べてみるとよく分かります。つまり日本人の体力というものは、漢方薬によって非常に弱らせられていたのです。というのは漢方薬は量が多いのです。ところが西洋の薬になると量は実に少ないのです。漢方薬からみると、その百分の一か千分の一くらいなものです。ですから西洋の薬がそうとうに毒があっても、量が少ないために一時は良くなったのです。ですから最近言われている「日本人の寿命が延びた」ということはそれがためです。近ごろになっては、みんな漢方薬をのまなくなって西洋の薬をのんでます。そこで薬毒が減ったから寿命が延びたわけです。さらに西洋の薬も止めてしまえば、もっと寿命が延びるわけです。迷信というのは妙なもので、それに限ると思ってしまうと、理屈の多いほうに理屈をつけるのです。そういったような迷信を分からせるのだから、とにかく私の仕事というものは、それはたいへんなものです。
もう一つおもしろい話があります。これはいまに書きますが、詐欺の時代ということです。というのは、いまの人間はほとんど詐欺の被害者です。それが詐欺ということが分かればよいが、それに気がつかないのです。一番大きな詐欺は薬です。これは新聞広告にもたくさん出てますが、「この薬をのめば病気は良くなる」と言ってます。「治る」とは書きませんが、それは本当は治らないからです。そこで「良くなる」とか「好転する」とか書いてます。それはそうでしょう。薬をのんだときは一時気持ちが良くなるからそう書くのです。それで「治る」とは書かないが、「治りそうだ」ということを書いてます。「この病気に対して、これほどよい薬はない」と言ってますが、本当は治らないのですから、治らないのに治るということを書いているとしたら、立派な詐欺です。ですからみんなは詐欺の被害者なのです。それから医者が「この病気はとても重いから、入院して手術しなさい」と言う。「それでは先生、入院したら治りますか」と言うと、「それはやってみなければ分からない。しかし入院すれば、入院しないよりはよい」というように言います。それがおかしいのです。自分に見込みがなくて、ありそうに思わせるということは立派な詐欺です。お蔭話にも始終ありますが、「入院しろ」と言うから入院したところが、かえって悪くなって、入院したときにはまだ起きれたのが、とうとう寝たきりになったというのがあります。これは恐ろしい詐欺です。世の中にあるふつうの詐欺は金を損するくらいですが、これは命をやられるのですから詐欺取財でなく詐欺殺人です。それから「あなたは一週間通いなさい、まあ治るでしょう」とか、「この注射を一ヵ月続ければまあ治りますよ」と言うが、それを続けて治ったことはないのです。これも立派な詐欺です。
ところがまた、宗教の詐欺が大きいし恐ろしいのです。「信仰しなさい。あなたの病気は信仰しだいで治ります」と言うが、この「信仰しだい」というのが臭いのです。それで「先生どうも良くなりません」と言うと、「それはあなたの信仰が足りないのです」と言うのです。この「足りない」ということが遁辞<とんじ>で、腹の中からそう思っているのではないのです。最初にああ言った手前ちょっとまずいから、そういった詭弁<きべん>を使わなければならないのです。救世教のほうは信仰が足りても足りなくても治りますが、ふつう世間の宗教での一番の逃げが「信仰が足りない」です。このために被害を受けているのがたいへんなものです。ところが前にも話したことがありますが……ある大きな宗教でのことです……そこの妻君から聞いたのですが、親父が病気で「二〇〇円寄付すれば治る」と言うので、一生懸命に金をこしらえて二〇〇円寄付したのです。ところがそれから間もなく死んだのです。「どうしたものでしょう、掛け合おうと思ってますが」と言うから、「掛け合いなさい、しかしおそらく返さないでしょう」と言ったのです。それで「信仰には懲り懲りした」と言ってました。「それでは神様が詐欺をするようなものです。しかし神様はそんなことはしないが、神様を看板にしてその教師が一つの詐欺をしたのだ。これは相手が信仰だから、まさか裁判に訴えるわけにゆかないし、そういう法律もないのだから、しようがないですね」と言ったのですが、そういうことがあるのです。そうすると宗教を看板にして詐欺をするわけです。この被害がまた大きいのです。だいたい一番大きな害というのは、それがために宗教の信用を傷つけることで、これは大きいのです。これもお蔭話によくありますが、救世教の信仰を奨められて、いままでいろんな宗教で懲り懲りしたというようなことを書いてあります。そういうようで、つまりこっちが大いに宣伝したり拡張する場合に、この宗教の妨害というものがたいへんです。宗教というものは駄目だ、おまけに新宗教というのはみんなインチキだ、と思わせるようなことです。それは言論機関などもそう言います。それからまた自分が信仰してみて、御利益があると言っていながら、ないということもありますから、救世教をあんなに奨められたが、やっぱりそんなものだろうと思う、その妨害というのがたいへんなものです。一番変な新宗教による害のほうが一番大きいくらいなものでしょう。そういったいろいろな妨害を排除して、そうしてだんだん発展してゆくということは、神様のお力が強いからです。なかなかたいへんなものです。
それについてちょっと書いてみました。
(御論文「本教発展の主因」朗読)〔「著述篇」第一一巻六一五ー六一七頁〕