教集25 昭和二十八年九月七日(1)

 昨日のラジオを聞いたでしょうが、あれはいつかの鹿児島の問題で、こっちからウンとかけ合ったところが、放送は取り消すことはできないので、詫びる意味でなんとかいたしましょうということになっていて、それが昨日の放送になったのです。本当は救世教だけでよいのですが、これはまた妙なもので、救世教だけとすると一つの宗教宣伝になるわけです。一つだけの宗教の宣伝になるとそれがいけないので、他の宗教を入れれば一般的の意味になりますから、新宗教とかあるいは昨日の題のように「世直し」というような意味で理屈はつくわけなので、ああしたわけです。だからこっちのほうはちょうど九分で、他のは三つで五分半くらいでした。しまいのは時間がなくなったので、話をしている中途で、気の毒ですが中止するようなわけだったのです。とにかくこっちに対しては非常にプラスになったわけです。これは、はなはだ下等な言い方ですが、やっと胸がすいたというか、とにかくよかったです。本教に対し、とにかく世間はよほど見方が変わってきたということは、たしかです。ですからこのごろは、新聞や雑誌にときどき出ますが、以前のような愚弄したようなことや、悪い感じを抱くようなことはほとんどなくなってきました。どっちかというと、いくらか言い方や見方がよくなってきたということは、たしかです。今度『婦人生活』の一〇月号に、七頁というのですからそうとう長く出るのでしょうが、これも割合によく書くらしいです。それもこれも、美術館などが非常にいい影響を与えていると思うのです。私の考えとしては、一般新宗教と同じに見られないように早くなりたいと思います。救世教というのは新宗教なみに見ることはできない、むしろ既成宗教でもとてもかなわない、というように見られるようになると、こっちがやりよくなるばかりでなく、私の予定のとおりになるわけです。それには結局ハワイとアメリカの発展が一番効果があると思います。これだけは他の宗教ではぜんぜん手が出ないのです。それも神様がいいあんばいにすることは間違いありませんが、話をしてみればそういうようです。昨日のラジオでも医学に対することを一番言ってありましたから、そうとうの成果はあったと思います。しかし医学に関すること、他の宗教に関することは、実に話しにくいのです。あんまりコキ下ろすようなことを言っては、やっぱり悪感情を持ちますし、また世の中の一般の人でも医学というものを絶対に信じてますから、そういう点も考えてやらないと逆効果になるといけませんから、非常に話しにくいのです。ですからほかの美術館とか農業のことの話はスラスラとゆきましたが、医学や既成宗教のことの話をしてくれというのですが、その点は、非常に話しにくいので、録音をとるときも非常に渋滞しました。それもやむを得ません。それでなんとしても医学について分からせなければしようがないと思って、いずれ『医学革命の書』の本が出ますが、これがそうとう問題になるだろうと思ってます。医学に対してできるだけ各面から見て批判しようと思っていま書いてますが、これはその中の一つですが読ませます。

 (御論文「医学封建」朗読)〔「著述篇」第一一巻六〇〇ー六〇三頁〕

 これほど進歩した医学が封建というのは、ずいぶんおかしな話です。それで封建時代には人を殺すのはなんとも思わないで、そのために主君のためとかなんとかいって殺された人間はどのくらいあるか分かりません。これは内容は医学とは違いますが、しかし結果から言うと医学のほうはもっと大量の殺人をしているのですから、これはたいへんな恐ろしい問題です。戦争が人を殺すといっても、医学から比べたら鼻クソみたいなものです。そういうように世界の人類の大量殺人をドンドンやっているのです。それでこれを進歩したと言い、これを進歩させなければならないと言って一生懸命にやっているのですから、無知と言ってよいか野蛮と言うか分かりません。もっとも野蛮人のやり方とは違うのですから野蛮とは言えないでしょう。しかしそれは文化的にはなってますが、野蛮よりもっと酷いもので、なんと言ってよいか分かりません。野蛮というのは虐殺ですが、これは非常に柔らかく、理知的に、形よく、結果において殺してしまうのです。ここまで知らせなければならないが、いきなりこういうことを言ってはびっくりして、どういう態度に出るか分からないですから、ここだけの話ですが、だんだん分からしてゆくつもりです。それで結局アメリカあたりでアメリカ人の信者がたくさんできて、そうして救世教の勢力というものが認められてゆくようになれば、それからだんだんとこっちは本音を説いてゆこうと思います。それこそ原子爆弾どころの騒ぎでなく、世界中の問題になるのです。それは無論神様のほうではよい具合にやりますからよいのです。私はあの人はいくつで死んだということを聞くとすぐに、また医者に殺されたなと思うのです。ところがそれがもっと困ることには、ふつうはいろんな人殺しをするのは、殺そうという意識でやるのですから、かえって罪は軽いのです。ところがこのほうは助けようとしてやるのですから厄介です。要するに善意の殺人です。殺人に善意というのはないのですから、善意の殺人というのは変ですが、はっきり言えばそうです。しかしそうもはっきり言えないので、このごろは善意の罪悪と言いますが、そういうわけですから、実にこれほど大きな問題はありません。

 それから昨夜ちょっと感じたので書いてみたことがあります。

 (御論文「本教発展の主因」朗読)〔「著述篇」第一一巻六一五ー六一七頁〕

 昨日もアルゼンチンから手紙が来ましたが、これは今年の六月にあっちからの手紙で、ぜひ救われたいというので、御守りを送ったり御神書を送ったりしましたが、昨日の手紙では、その人もだいぶ熱心に働き出したのですが、遠からずアルゼンチンにも始まるだろうと思います。これは手紙でやるのが一番よいのです。一々遠くに行くのはたいへんですから、手紙だけであっちに信者ができると、いずれはだれかが行くことになりますが、そういった準備をしておけば、あとが楽です。神様のやることはなかなか気がきいていると思います。とにかく神様というのは気がきいているものです。しかし古い昔の神様は気がききません。人間を苦しめたりいろいろしますが、救世教の神様はとにかく力があるわけですから、なんでも自由自在です。この間も歌でよみましたが「泣くが如く訴ふが如き祈りこそ小乗宗教のしるしなりける」というのです。キリスト教なども「泣く如く訴うるが如き祈り」というのはたくさんあります。路傍で牧師などが説教しているのも、実に哀れむべき声を出してやってますが、あれは神様に力がないから、自力が加わるため、自力を主にするからです。そういうようにして救われるというのは、やっぱり一つの地獄的のものです。ニコニコして笑って救われてゆくのでなければ本当の天国的宗教ではありません。私は前にキリスト教の婚礼に招<まね>かれたことがありますが、婚礼とお通夜と同じです。もっともお弔いのときには、このごろはあんまりないが、昔はお菓子をくれます。キリスト教の婚礼式にはお菓子をくれます。それからこれはキリスト教の一派ですが、笑いは罪悪としてあります。ですから前に私が笑冠句をやっているときにクリスチャンの人が来て、キリスト教では笑いを罪悪としているのに、ここは笑いを奨励している、ぜんぜん違うと言ってました。そういうわけで、よくも違っているのです。ですからそういった宗教が世界的に大いにやっているときは、やっぱり世界は地獄的になるのも、ちょうど合っているわけです。もっともそれでも悪い奴に苦しんだりしているよりも、宗教的に苦しんでいるほうがずっとよいです。しかし神様のほうからご覧になれば、やっぱり人間が喜んで歓喜に溢れている世の中にしなければならないのです。ですから救世教のようなのは、いままでにぜんぜんないのですから、いろいろ誤解されたり、間違った眼で見られたりするわけです。昨日のラジオでも、他の宗教は戒律を守らなければならないとか、道徳上から言うと、こうとか、いろいろ言ってましたが、いままではみんなそういう説き方だったからそれでよいのですが、戒律というものはやっぱり一つの自力です。ちょうど分かりやすく言うと、だれも人の見てない所に金が落ちている、そうするとこれは拾いたい、欲しいと思うが、これを拾っては罪をつくる。だから我慢して押さえるのですが、それは戒律です。ところが本当いうと、落ちていても、これは自分のものではないから拾わないに決まっているのだから、それをなんとも思わないで拾わないで行くというのが本当です。戒律があるから、したいこともしないということは、本当ではないのです。だから我慢しなくてもよいのです。自然にやらないことに決まっているのですから、なんとも思わないで通り過ぎて行くというのが救世教のやり方です。ですから戒律がないのではなくて、戒律はいらないのです。ところがつまり、酒が飲みたい、飲みたいけれども、これは神様に悪いといって一生懸命に我慢するが、それでは本当ではありません。だから酒は飲みたくない、飲もうと思わないというのが本当です。私は酒を飲むなということは言ったことはありません。酒が好きな人には飲みなさいと言うのです。それでも飲みたくなくなるのですから、それが本当です。ですから自分から自然に悪いことをしない、ずるいことをしない、酒が飲めなくなる、というようにできる宗教がいままでになかったのです。そこで、なかったということは神様に力がないからして、そういう人間にすることができなかったわけです。そこで一生懸命に外部的に押さえつけるというように、すべて外部的のそういったやり方だったのです。これもいままでの文明は全部そうです。だから医学でもそうです。苦しみが出るからその苦しみを押さえつける、熱が出るから氷で冷すというのと同じです。宗教もそうなっていたのです。外部的に押さえ、そうしてよい行いをさせるようにするというのです。ですから本当のものではないのです。だいたいずるいことをするのでも悪いことをするのでも、あれは一つの趣味です。とてもおもしろくてしようがないのだそうです。巾着切でも、ああしてちょっと人のものをかすめて盗<と>るということが、実になんとも言えないおもしろさがあるのです。ですからまじめに稼げば一万円稼げるものを、ああやればもっと少ないのです。いつか泥坊が、平均してみるとふつうの労賃よりも少ないというのですから合いません。それでその間に懲役に行ったり、いろいろのことを計算に考えると、一日いくらにもつかないというのです。それでは止<や>めたらよいだろうというが、止められないというのは趣味があるのです。趣味というのはつまり副守護神です。副守護神のほうが支配して勝っているからです。ところが趣味がなくなるということは、副守護神がいじけてしまって、人間を支配するのではなくて支配されてしまうほうになる。そこで趣味がなくなるのです。またよく嘘をつきますが、嘘をつくというのは偽<いつわ>るのですから、一つのずるさですが、これも趣味です。それでどうも嘘が止められないという人がたくさんあります。それでいつか聞いたことがありますが、君は嘘をつくが、いったいなにがおもしろいかと言うと、嘘を言うと相手が驚いたり、耳を傾けたりするのがおもしろいというのです。嘘といってもいろいろありますが、一番始末が悪いのは人を喜ばせる嘘です。「今度こういう信者ができて、この人が信者になったら、一度に信者ができる。こういう勢力があって、こんなに金がある。こんなに仲間を集める」というのです。それで私を喜ばせようというのです。その時分には私も、それはたいしたものだなと言って喜ぶのです。そうするといつかしら煙<けむ>になってしまうのです。そういうことがいくどもありました。それは喜ばせる嘘です。これは喜ばせる代わりに、嘘ということが分かると、こっちはよけいガッカリします。さらにまたびっくりさせる嘘があります。「今度はこういう方面で救世教をやっつけようとしている、こういう計画をしているというから、よほど気をつけなければならない。しかし私にはこういう手があるから、このほうから手をまわせば押さえられないことはないが、とにかくお気をつけになったほうがよいです」というようなことを言うのです。ですからこっちは言葉どおりにウッカリ信ずることがあるのです。それで私がそれに耳を傾けると、それに興味を持っているのです。それも一つの大きな罪悪です。それらはなにかというと、つまり副守護神がおもしろいのです。新聞などにいろんなことが出てますが、みんなそれです。ですから詐欺師とか、いろんなインチキでウンと金を集めたりして、おもしろおかしく遊ぶ奴がよく出てますが、みんなそれです。ところがそれは副守護神がのさばっているからなのです。それをキューッとやってしまえば、そういうことがつまらなくなり馬鹿馬鹿しくなります。そうすると頭がはっきりしてくるから、そういうことをしていてはつまらないということになって、それよりか人の信用を得てよい地位になったほうがよいという、算盤<そろばん>ということがはっきりしてきます。ですからそういう人間に限って算盤をとらないのです。ですから私はいつか「算盤をとれ」という論文を書きましたが、算盤を正確にとれる人は、やっぱり曇りが少ないわけです。

 それからこの間あったことですが、地方にある、ある中教会が東京に出張所をつくっていたのです。その出張所によく働く熱心な信者があったのです。それが事情は言えませんが、ちょっと信者として考えられないほどのことがあったのです。あったというよりか、ありそうだったのですが、それは御守護でうまく、なにごともなくすんだのです。これはおかしいと思って、中教会長とその人間を呼んで聞いてみたのですが、そこは支部であって支部長がいないのです。ただの出張所になっていたのです。それがいけなかったのです。右につき心得ておかなければならないことは、仮にも支部と名のついたものは、必ず支部長がなければならないのです。出張所だけというのはいけません。お医者さんなどには出張所ということがあって、何時から何時までは院長が出張するということになってますが、宗教ではそういうことはいけません。どんなときに病気が起こるか分かりませんから、支部長がいればすぐに呼ぶことができますが、いないとその支部としての機能を発揮してゆくことができないから、それを神様が教えるためにそういうことがあったのです。ですからちょっと気がつかないようなことでも、あんがい大きなことがあるからして、いつかも言ったとおり、理屈に合わなければいけないということで、つまりその理屈を考えるのです。考えれば分かるのです。もし分からないとすれば智慧証覚が鈍っているからです。鈍っているということは霊に曇りがあるのです。だからできるだけ曇りを取らなければいけないのです。それにはできるだけ御神書を読むのです。そうするとそれだけ曇りが取れて智慧証覚が発達しますから、よく気がついたり、理屈が分かりよくなります。それで理屈どおりにゆけばすべてが順調にゆくのです。ときどきいろいろなことの質問がありますが、なにかあるときには調べてみると必ずどこかに理屈に外れていることがあります。だからこの理屈を知ることです。理屈を知ることは、要するに気のつくことです。だからお釈迦さんは「悟りを開け」「覚者になれ」と言ったのです。「覚者になれ」ということは、いま言った智慧証覚がある程度まで発達することです。ですから仏教のほうではよく「智慧」ということを言ってます。お釈迦さんの説いたことの眼目は、ほとんど「智慧」でしょう。そういうようで、「智慧」ということは、いま言った智慧証覚、つまり「覚り」です。覚りということは、あきらめということばかりでなく、「自覚」「覚者」ということですから、それは大きい小さいにかかわらず、なんでも理屈に合わせなければならないのです。そうするとその人のすることが、そう骨折らないですべてがうまくゆくのです。

 それについて一昨々日、前の日活の社長をしていた人で、なかなかやり手ですが、その人が私の意見を聞きに、他の人に連れられてきたのです。その連れてきた人もそうとうな人です。それで最初言うには「銀座辺りにモナコのようなビルディングをこしらえて経営しようと思う、それに賛成してくれ」と言うので、私は「賛成できない」と言うと、「どういうわけか」と聞きますから、「そういう仕事は罪を作るからいけない」と言ったところが、その一言でハッと思ったらしいのです。もっともその人はお寺の生まれで、仏教のこともそうとう知っているので、罪を作るという一言で目が覚めるように分かったのです。いろんな話をしましたが、私が一々、急所急所を言ってやったところが、非常に恐縮して、自分も大いに覚りを得たと言って喜んでいました。そういうような具合で、急所を見つけるということがやはり智慧証覚ですから、そういうような人間になれば、なにごとでも急所の発見が早いです。だから無駄がないわけです。それからそのときにも言ったのですが、私はこれだけ大きな仕事をしていても、別にそうワサワサと忙しそうにしていない。始終割に悠々として、美術を楽しんだり庭を楽しんだりいろいろしている。それでいて仕事は十人前くらいやりますが、それはなぜかというと急所をやるので無駄をしないからです。それで急所をやるということは、急所を発見するからです。この間の論文にも書きましたが、いまの人はつまらないことや簡単に分かることを、大勢で毎日会議をして結論が出ないというのは、それはつまり急所の発見ができないからです。できないということは曇りきっているからです。この間も読んだとおり、いまの人は毒塊人間だからして、霊のほうもやっぱり曇りの固まりみたいなものですから、そこでいま言う急所の発見が少しもできないわけです。しかしだんだんそういう人間が増えているのです。つまりだんだん薬毒が多くなってくるからして血が濁る、そこで霊が曇る、ということになるからして、たとえてみれば、政治家にしても昔の政治家の偉い人は、一人でずいぶん目覚ましい仕事をしたものですが、いまの政治家というのは年中ゴテゴテと始終相談したりしてますが、さっぱり成績が上がらないのです。ですからどんな相談でも、まとまりというのがつかないらしいのです。鳩山自由党と吉田のほうとが、昨日は合同することになるだろうというようなことだったが、私もそうなるべきだと思っていたが、さっきのラジオで聞いてみると、今日は駄目だというのです。そういうことが最初から分かっていれば相談もしないのですが、それが分からないのです。それで年中、くっつきそうで離れるのです。これは改進党と自由党も同じです。それから社会党の右派と左派もそうで年中くっつきそうで離れているのです。これを見てもいかに智慧証覚がないかということが分かります。見込みがあればやり、見込みがなければ最初からやらないというのがよいのです。もっとも、そういうことがあって料理屋に行って酒を飲む、そのほうが、あてかもしれません。中には恐妻病かなにかで、うまく口実をつけなければ怖いから、毎日相談とか会議ということを言って、料理屋に行くのもあるかもしれません。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十六号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p76」 昭和28年09月07日